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2007.10.11
つくり伝える孤風院

(前記事からつづく)
孤風院の床は、移築の際の改造によって、中央が掘り下げられた格好になっている。小演劇の劇場に似て、日常の力に少しボーナスを与えてくれるような雰囲気がいい。
到着してすぐに「木島安史と吉阪隆正」というタイトルで話を行なった。最後は「ぐるぐるつくる大学セミナー・ハウス」の活動の紹介をした。
「つくり伝える」ようなあり方が、共通すると感じたからだ。
その後、机を中央に置いて、木島安史さんの娘さんである建築家の木島千嘉さん、孤風院の会事務局代表を務める建築家の高木淳二さんとのディスカションに移った。
司会を務めるのは新堀学さん。今度、INAXのリノベーション・フォーラムで「エリア・リノベーション/コミュニティ・リノベーション」という現場取材がスタートする。その初回で「孤風院の会」の活動が取り上げられる。
メディア・デザイン研究所の齋藤歩さんに誘われて、僕も加わることになった。木島千嘉さんのお話は包み込むような優しさで、高木淳二さんの語りは学生を焚きつける熱を帯びている。ともに具体的でためになって、ここに来て良かったと感じた。
マイクがまわってきた。何を話そうかと思って口を突いて出たのは、目の前にある部材の強さだった。柱のフルーティングも持ち送りも、モノとしての説得力にあふれている。

何らかの理由でこうした形状に作らざるをえなかった過去からの異物感が、その上に重ねられた齢と改変の下で、鈍い光を放っているように感じられた。
木島安史さんは、いわゆる「洋風建築保存」のアンチテーゼとして、これを築いたのだと分かった。僕も日本近代建築史の研究者の端くれなので、大学院時代には文化財に指定された明治期の建築などを見て回ったものだったが、かつての郡役所や学校が一応はきれいにペンキが塗られて復原されながらも、中には古い教材や民具がただ運び込まれ、二度訪れるかどうか怪しい「民俗館」や「郷土館」として生き長らえているのを見ると、保存に向けた努力には頭が下がりながら、やはり哀しい気分は拭えないのだった。そんな記憶が蘇った。
木島さんはそうしたルーティンでは失われてしまうような、そもそも「残したい」と思う始まりの心理を、この孤風院で保とうとしたのだろう。孤風院は機械的に正しい復原考証では無い。かといって、単に過去を素材とみなしてデザインの腕の見せ所とするような建築家の「刺激的」なリノベーションでも無い。近代建築の保存がアカデミックに正当化され出した時代 ― それは日本近代建築研究が正統の衣をまとい始めた時代でもあったわけだが ― に、それとは異なるやり方で、過去の建築 ― この場合はモダニズムに対する様式建築 ― がそもそも持つ批評的な違和感を、現在のものとして受け継ごうとする創造的な補助行為だと思う。
プロスペクターの今村創平さん・南泰裕さん・山本想太郎さんが参加した2005年のワークショップでつくられた「足湯」、今年の新たな壁塗りなど、孤風院は今も活発な活動を呼び起こしている。
その源泉は何か。状況としては「孤風院」が、そもそもオリジナルではないということがあるだろう。正統性の根を辿っていっても、100坪あった旧熊本工業高校講堂は、「孤風院」と名づけられた時に65坪に縮小しているわけだし、立地も異なる。オリジナルがオリジナルではないということが、未来に続く活動にも正統性を付与している。

では、何でもありかというとそうでもない。
継続するものはモノである。木島安史という人間の存在以上に活動を規定し、新たな活動の質を高める正当な畏れを与えているのは、孤風院の部材そのものだろう。齢と改変の痕跡をまといながら、継続する目の前の物質だろう。
オリジナルがオリジナルでないというスイッチを木島さんが押して、モノの仕組みの解釈が始まった。「保存」にまつわる知ったような美辞麗句の裏で、直感的な私たちの感覚は多分、今も手付かずになっている。孤風院の存在はそれを言語化する大きな手助けだ。
というようなことを空間の力を借りて、会話の中で口にしたのだと思う。
「だと思う」というのはメモを執っていなかったからで、発言はいずれ文章として整理されて、前述のサイトに載るだろう。
ここでは実際の内容よりも、その時の気分に従って、推敲せずに手の赴くままを書くことにした。言うことと書くことは違うので、あまりうまくは進まないけど。

時計を見ると12時近く。その日は孤風院に泊らせてもらった。
司会を務めるのは新堀学さん。今度、INAXのリノベーション・フォーラムで「エリア・リノベーション/コミュニティ・リノベーション」という現場取材がスタートする。その初回で「孤風院の会」の活動が取り上げられる。
メディア・デザイン研究所の齋藤歩さんに誘われて、僕も加わることになった。木島千嘉さんのお話は包み込むような優しさで、高木淳二さんの語りは学生を焚きつける熱を帯びている。ともに具体的でためになって、ここに来て良かったと感じた。
マイクがまわってきた。何を話そうかと思って口を突いて出たのは、目の前にある部材の強さだった。柱のフルーティングも持ち送りも、モノとしての説得力にあふれている。

何らかの理由でこうした形状に作らざるをえなかった過去からの異物感が、その上に重ねられた齢と改変の下で、鈍い光を放っているように感じられた。
木島安史さんは、いわゆる「洋風建築保存」のアンチテーゼとして、これを築いたのだと分かった。僕も日本近代建築史の研究者の端くれなので、大学院時代には文化財に指定された明治期の建築などを見て回ったものだったが、かつての郡役所や学校が一応はきれいにペンキが塗られて復原されながらも、中には古い教材や民具がただ運び込まれ、二度訪れるかどうか怪しい「民俗館」や「郷土館」として生き長らえているのを見ると、保存に向けた努力には頭が下がりながら、やはり哀しい気分は拭えないのだった。そんな記憶が蘇った。
木島さんはそうしたルーティンでは失われてしまうような、そもそも「残したい」と思う始まりの心理を、この孤風院で保とうとしたのだろう。孤風院は機械的に正しい復原考証では無い。かといって、単に過去を素材とみなしてデザインの腕の見せ所とするような建築家の「刺激的」なリノベーションでも無い。近代建築の保存がアカデミックに正当化され出した時代 ― それは日本近代建築研究が正統の衣をまとい始めた時代でもあったわけだが ― に、それとは異なるやり方で、過去の建築 ― この場合はモダニズムに対する様式建築 ― がそもそも持つ批評的な違和感を、現在のものとして受け継ごうとする創造的な補助行為だと思う。
プロスペクターの今村創平さん・南泰裕さん・山本想太郎さんが参加した2005年のワークショップでつくられた「足湯」、今年の新たな壁塗りなど、孤風院は今も活発な活動を呼び起こしている。
その源泉は何か。状況としては「孤風院」が、そもそもオリジナルではないということがあるだろう。正統性の根を辿っていっても、100坪あった旧熊本工業高校講堂は、「孤風院」と名づけられた時に65坪に縮小しているわけだし、立地も異なる。オリジナルがオリジナルではないということが、未来に続く活動にも正統性を付与している。

では、何でもありかというとそうでもない。
継続するものはモノである。木島安史という人間の存在以上に活動を規定し、新たな活動の質を高める正当な畏れを与えているのは、孤風院の部材そのものだろう。齢と改変の痕跡をまといながら、継続する目の前の物質だろう。
オリジナルがオリジナルでないというスイッチを木島さんが押して、モノの仕組みの解釈が始まった。「保存」にまつわる知ったような美辞麗句の裏で、直感的な私たちの感覚は多分、今も手付かずになっている。孤風院の存在はそれを言語化する大きな手助けだ。
というようなことを空間の力を借りて、会話の中で口にしたのだと思う。
「だと思う」というのはメモを執っていなかったからで、発言はいずれ文章として整理されて、前述のサイトに載るだろう。
ここでは実際の内容よりも、その時の気分に従って、推敲せずに手の赴くままを書くことにした。言うことと書くことは違うので、あまりうまくは進まないけど。

時計を見ると12時近く。その日は孤風院に泊らせてもらった。
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