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2007.10.10
「孤風院」に導かれて

NHK文化センターの講義を終えて地下鉄の階段を駆け下り、一路、羽田空港へ。
16時半発のJAL647便は定刻に阿蘇熊本空港に降り立ってくれ、空港のレンタカーのお兄ちゃんは人懐っこい笑顔でカーナビの使い方を簡潔に説明してくれたので、予定通りの19時過ぎに孤風院と初顔合わせすることができた。
人里離れた立地を勝手に思い描いていたのだが、実際にはそうではなく、国道から少し入った草むらの向こうにあって、窓から漏れるオレンジ色の光がやわらかだった。「孤風院の会」は、すでに学生の発表で賑わっているようだった。
熊本大学にあった1908(明治41)年竣工の旧熊本工業高校講堂の保存運動に関わった木島安史(1937-92)が、結局は壊されることになったその部材を引き受け、1976年に移築改造して阿蘇の麓の自宅とした怪作「孤風院」。
ここには椙山哲範君(東海大学)と、浜田由美さん(熊本県立大学)に両手をとられて訪れたようなものだ。
「木島安史さんについて研究するっていう面白い奴がうちにいるんだよ」DOCOMOMO Japanの会議の後、東海大学の渡邊研司さんに言われ、木島安史さんが伊東忠太に興味を持っていたので伊東忠太の建築思想について尋ねたいという椙山君が家にやってきたのが昨年。4時間くらいしゃべっていた気がする。

木島安史さんは早稲田大学の吉阪隆正さんの下で学び、丹下健三+都市建築設計事務所勤務やエチオビアの大学の講師などを経て、1970年にYAS都市研究所を設立。翌年、助教授として熊本大学に赴任した。
僕自身の伊東忠太と吉阪隆正に関する研究は今のところ、それぞれ別個の関心が元になっているので、何か統一された目論みがあるわけではないし、両氏の生年も半世紀違う。
だから、伊東忠太と吉阪隆正の両方に関わる事柄というのはあまり無い。
木島安史さんの存在は、その数少ない例外である。上無田松尾神社(1975)なんて、伊東忠太が諦めた場所から先に、初めて歩を進めた建築だと感心していた。木島さん自身、来日したチャールズ・ジェンクスを築地本願寺(1934)に連れていったというから、伊東忠太を建築家として意識していたのだと思う。
ほったらかしにしておいたこのミッシングリンクをきちんと調べようと決めたきっかけが椙山君。
苦労の末の彼の卒業論文「上無田松尾神社の意匠に到る木島安史の設計理念とその背景」は見事2007年の日本建築学会優秀卒業論文賞に輝き、その発表も行なわれた孤風院のオープンハウスに誘われたのだが、その時は都合がつかず訪れることができなかった。
それが7月10日の「DOCOMOMOフォーラム都城」の折に熊本県立大学の浜田由美さんに会い、翌日、磯達雄さんや五十嵐太郎さんとの宮崎建築見学の際に車が一緒だったので、孤風院の会の今の活動の様子を詳しく聞いた。
9月29日に今年の活動報告会があるというので、この機を逃す手は無いと「参加しようかな」と答えたら、後日あれこれ資料も送ってくれて、これはもう行くしかない、となったわけである。
(つづく)
ここには椙山哲範君(東海大学)と、浜田由美さん(熊本県立大学)に両手をとられて訪れたようなものだ。
「木島安史さんについて研究するっていう面白い奴がうちにいるんだよ」DOCOMOMO Japanの会議の後、東海大学の渡邊研司さんに言われ、木島安史さんが伊東忠太に興味を持っていたので伊東忠太の建築思想について尋ねたいという椙山君が家にやってきたのが昨年。4時間くらいしゃべっていた気がする。


木島安史さんは早稲田大学の吉阪隆正さんの下で学び、丹下健三+都市建築設計事務所勤務やエチオビアの大学の講師などを経て、1970年にYAS都市研究所を設立。翌年、助教授として熊本大学に赴任した。
僕自身の伊東忠太と吉阪隆正に関する研究は今のところ、それぞれ別個の関心が元になっているので、何か統一された目論みがあるわけではないし、両氏の生年も半世紀違う。
だから、伊東忠太と吉阪隆正の両方に関わる事柄というのはあまり無い。
木島安史さんの存在は、その数少ない例外である。上無田松尾神社(1975)なんて、伊東忠太が諦めた場所から先に、初めて歩を進めた建築だと感心していた。木島さん自身、来日したチャールズ・ジェンクスを築地本願寺(1934)に連れていったというから、伊東忠太を建築家として意識していたのだと思う。
ほったらかしにしておいたこのミッシングリンクをきちんと調べようと決めたきっかけが椙山君。
苦労の末の彼の卒業論文「上無田松尾神社の意匠に到る木島安史の設計理念とその背景」は見事2007年の日本建築学会優秀卒業論文賞に輝き、その発表も行なわれた孤風院のオープンハウスに誘われたのだが、その時は都合がつかず訪れることができなかった。
それが7月10日の「DOCOMOMOフォーラム都城」の折に熊本県立大学の浜田由美さんに会い、翌日、磯達雄さんや五十嵐太郎さんとの宮崎建築見学の際に車が一緒だったので、孤風院の会の今の活動の様子を詳しく聞いた。
9月29日に今年の活動報告会があるというので、この機を逃す手は無いと「参加しようかな」と答えたら、後日あれこれ資料も送ってくれて、これはもう行くしかない、となったわけである。
(つづく)
市川
倉方さま
こんにちは。以前、倉方さんのブログで紹介していただいた、市川智子です。『愛と哀しみのル・コルビュジエ』できました! たびたび、倉方さんのブログを楽しみに拝読しているのですが、この狐風院のお話と写真はすばらしく惹き付けられてしまいました。(とくに、「マリリン・モンローの一角」と「恐竜の骨のような時代がかった部材と冷たい真っ白な漆喰壁と板壁が取り合っている空間」。匂いが伝わるような写真がいつもアップされていて、写真が上手だなぁといつも思います。)『愛と哀しみのル・コルビュジエ』も、わりと、「どのように使っていくのか。表面的に消費しつくすような、人と建築の関係ではなく、人の営みの時間とともにある建築。」というようなことを主題にしてごにょごにょと考えていた所がありまして、このエントリも興味深く拝読しました。自著のマンガのほうは、本当はコルビュジエの50年代のフランス、インドの話から、外伝のような感じで吉阪さんの帰国した日本、はたまたドーシ君は・・・、と頭の中で誇大妄想的に広がっていたのですが、とても、取材力、体力不足でもうちょっとこじんまりと収まってしまいました。よかったら、御笑覧いただきたく、献本したいのですが、どちらに送ればよいでしょうか?
市川のアドレスはletomokoアットマークm9.dion.ne.jp(アットマークを@にかえてください)です。ではでは、失礼いたします。
こんにちは。以前、倉方さんのブログで紹介していただいた、市川智子です。『愛と哀しみのル・コルビュジエ』できました! たびたび、倉方さんのブログを楽しみに拝読しているのですが、この狐風院のお話と写真はすばらしく惹き付けられてしまいました。(とくに、「マリリン・モンローの一角」と「恐竜の骨のような時代がかった部材と冷たい真っ白な漆喰壁と板壁が取り合っている空間」。匂いが伝わるような写真がいつもアップされていて、写真が上手だなぁといつも思います。)『愛と哀しみのル・コルビュジエ』も、わりと、「どのように使っていくのか。表面的に消費しつくすような、人と建築の関係ではなく、人の営みの時間とともにある建築。」というようなことを主題にしてごにょごにょと考えていた所がありまして、このエントリも興味深く拝読しました。自著のマンガのほうは、本当はコルビュジエの50年代のフランス、インドの話から、外伝のような感じで吉阪さんの帰国した日本、はたまたドーシ君は・・・、と頭の中で誇大妄想的に広がっていたのですが、とても、取材力、体力不足でもうちょっとこじんまりと収まってしまいました。よかったら、御笑覧いただきたく、献本したいのですが、どちらに送ればよいでしょうか?
市川のアドレスはletomokoアットマークm9.dion.ne.jp(アットマークを@にかえてください)です。ではでは、失礼いたします。
2007/10/29 Mon 21:45 URL [ Edit ]
くらかた
市川さま
メールありがとうございます。それから、孤風院の写真を喜んでいただいたことも!
『愛と哀しみのル・コルビュジエ』は、じっくり読ませていただいていて、こうして1冊の本になると、市川さんの考えていることが良く分かったようで楽しいです。この感じというのは、構想力を介したマンガと、説明のための文章/イラストと、私的立場からの論考の3者がいったいになった書物でないと伝わらないような気がします。まさに著者の全身から生み出された世界です。
その中心にある思想にも大いに共感しました。というより、勇気づけられた思いです。著書で肯定的に捉えられている「住民vs建築家」のバトルは、《建築=住居は建築家がすべてコントロールすることはできない、生きることによって意味を与えられるモノである》といったことに近いのだろうと勝手に考えています。吉阪隆正さんとル・コルビュジエについて私が調べていった時に大きくなっていったのが、今和次郎という人の存在です。吉阪さんは日本女子大学の講義を今和次郎から引き継いで、戦後、「住居学/生活学」の発展にまず取り組みます。その時に引き継いでいったのが、先ほど《》の中に書いたような人と建築の関係です。吉阪さんがル・コルビュジエと出会って最初に悩み、やがて独特の、現在につながるようなル・コルビュジエ理解ができたのは、そんな「住居学/生活学」の下地があったからだと気付きました。市川さんの本は、ル・コルビュジエや吉阪隆正のそうした部分を評価し、好きな自分の波長とぴったりしました。
「愛と哀しみ」というタイトルも好きで、「ル・コルビュジエの『住居学』化」という記事のテーマだけは考えたのですが、まだブログの記事をまとめられずにいます。しばしお待ちください。
ル・コルビュジエは個性的な時代背景と人物うごめく大河ドラマですから、続編、続々編も期待しています。この世界の続きが楽しみです。
メールありがとうございます。それから、孤風院の写真を喜んでいただいたことも!
『愛と哀しみのル・コルビュジエ』は、じっくり読ませていただいていて、こうして1冊の本になると、市川さんの考えていることが良く分かったようで楽しいです。この感じというのは、構想力を介したマンガと、説明のための文章/イラストと、私的立場からの論考の3者がいったいになった書物でないと伝わらないような気がします。まさに著者の全身から生み出された世界です。
その中心にある思想にも大いに共感しました。というより、勇気づけられた思いです。著書で肯定的に捉えられている「住民vs建築家」のバトルは、《建築=住居は建築家がすべてコントロールすることはできない、生きることによって意味を与えられるモノである》といったことに近いのだろうと勝手に考えています。吉阪隆正さんとル・コルビュジエについて私が調べていった時に大きくなっていったのが、今和次郎という人の存在です。吉阪さんは日本女子大学の講義を今和次郎から引き継いで、戦後、「住居学/生活学」の発展にまず取り組みます。その時に引き継いでいったのが、先ほど《》の中に書いたような人と建築の関係です。吉阪さんがル・コルビュジエと出会って最初に悩み、やがて独特の、現在につながるようなル・コルビュジエ理解ができたのは、そんな「住居学/生活学」の下地があったからだと気付きました。市川さんの本は、ル・コルビュジエや吉阪隆正のそうした部分を評価し、好きな自分の波長とぴったりしました。
「愛と哀しみ」というタイトルも好きで、「ル・コルビュジエの『住居学』化」という記事のテーマだけは考えたのですが、まだブログの記事をまとめられずにいます。しばしお待ちください。
ル・コルビュジエは個性的な時代背景と人物うごめく大河ドラマですから、続編、続々編も期待しています。この世界の続きが楽しみです。
2007/10/31 Wed 15:42 URL [ Edit ]
市川
倉方さま
多大な褒め言葉をいただいてもじもじしている市川です。住居・・・、市川が無意識に住居に焦点を当ててしまうのは、<たいていの人はそんなに多くの建築にさわれないし、深く長くさわるのは、まず、自分の家でいいんじゃないか>と思うからかもしれません。(市川が女子だからもあると思います。コルビュジエもわりと女子なのかしら。吉阪さんも。)そして、市川にとって、よっぽど異人なのは、ミースとか佐野利器とか、丹下さんもちょっとそうかな。なんであんなに、事務所とか法律とか体育館とか街の景観とか、外側(公共?)をつくることに興味をもてるのか、市川にとってはわりと不思議。でも、今度マンガを描くなら、日本を舞台に、時代は、1923年(大正12年)9月1日の午後11時58分44秒から始めたりしたいです。関東大震災からはじまる東京の変化を描写したいですねぇ。日本の日本らしいところを是非、探ってみたいです。(ひゃー、大変です。調子にのって、言っちゃった。)
多大な褒め言葉をいただいてもじもじしている市川です。住居・・・、市川が無意識に住居に焦点を当ててしまうのは、<たいていの人はそんなに多くの建築にさわれないし、深く長くさわるのは、まず、自分の家でいいんじゃないか>と思うからかもしれません。(市川が女子だからもあると思います。コルビュジエもわりと女子なのかしら。吉阪さんも。)そして、市川にとって、よっぽど異人なのは、ミースとか佐野利器とか、丹下さんもちょっとそうかな。なんであんなに、事務所とか法律とか体育館とか街の景観とか、外側(公共?)をつくることに興味をもてるのか、市川にとってはわりと不思議。でも、今度マンガを描くなら、日本を舞台に、時代は、1923年(大正12年)9月1日の午後11時58分44秒から始めたりしたいです。関東大震災からはじまる東京の変化を描写したいですねぇ。日本の日本らしいところを是非、探ってみたいです。(ひゃー、大変です。調子にのって、言っちゃった。)
2007/11/01 Thu 04:29 URL [ Edit ]
くらかた
市川さま
「男子の本懐」という奴でしょうか? あまりジェンダーの話で追っていくと、思わぬ傷を負いそうな予感もするのでアレですが・・・。
しかし、考えようによっては、他人が「深く長くさわる」住宅を設計する「建築家」という人達は大した度胸だ、と言えなくもありません。その点、丹下さんが自邸しか設計していないのは一つの見識かもしれんと思っていたら、古い雑誌でこんな記事を見つけました。1954年に当時・新進気鋭の池辺陽、丹下健三、吉阪隆正、広瀬鎌二が手がけた、それぞれの自邸を紹介した文章で、執筆者は浜口ミホ。女性で最初のスター建築家ですね。著書『日本住宅の封建性』やダイニング・キッチンの開発などでも知られる。
浜口さん曰く、丹下さんは住宅についてこんな意見を持っていたそうです。
「丹下氏は住宅を設計されたことがない。それは生活がどうあるべきかということがどうもよくわからないので、他人の家を設計する自信がなかったそうだ。この言葉の中には、戦後住宅建築家が社会改造的な熱意を持って唱道した、生活の機能による間取りの分化や畳の生活から椅子式の生活への移行などに、かなりな不信の念を持っていられるようだ。《中略》今度は自分の家だから、自分の家ということでかなり個人的なことから出発して設計したので一般の住宅に対して、どういう意味を持つか余り自信がないのだそうだ。」
丹下さんは生活をつくる難しさを理解していたがゆえに「住宅」から離れた。浜口ミホさんが語る「自信がない」丹下さんは、ある意味、分をわきまえた正直さで、結構、好きになってしまいます。丹下自邸は彼の作品中で、最も個人的なものだといえます。
逆に、吉阪さんの場合、その自邸は彼の作品中で最も啓蒙とか、典型とかを意識している。立体の「人工土地」の中に住み手が好き好きな空間をつくるというメタボリズムみたいな発想です。
建築家の姿勢の違いが鮮明に現れてしまう。「住宅」は建築家にとっての試験紙のようなものかもしれません。それにしても、浜口ミホさんの取材の的確さには舌を巻きました。
さて、大震災後の風景やその中での人々の暮らしの移り変わりというのは、例えば今和次郎のスケッチを見たり、初田亨さんや内田青蔵さんの研究書を読んでいると、多くの人が頭に描きたくなるような風景だと思います。でも、描けないでいるわけで・・・ぜひとも、想像力を交えた描写で、焼け跡に建ち始めたバラックや、昭和初期のピカピカの「モダニズム」(いわゆる《近代主義建築》ではなく、「モボ」「モガ」のほうの)のカフェーやキャバレーの生き生きした使われ方を見せてもらいたいなと、気が早いですが、待っています。
「男子の本懐」という奴でしょうか? あまりジェンダーの話で追っていくと、思わぬ傷を負いそうな予感もするのでアレですが・・・。
しかし、考えようによっては、他人が「深く長くさわる」住宅を設計する「建築家」という人達は大した度胸だ、と言えなくもありません。その点、丹下さんが自邸しか設計していないのは一つの見識かもしれんと思っていたら、古い雑誌でこんな記事を見つけました。1954年に当時・新進気鋭の池辺陽、丹下健三、吉阪隆正、広瀬鎌二が手がけた、それぞれの自邸を紹介した文章で、執筆者は浜口ミホ。女性で最初のスター建築家ですね。著書『日本住宅の封建性』やダイニング・キッチンの開発などでも知られる。
浜口さん曰く、丹下さんは住宅についてこんな意見を持っていたそうです。
「丹下氏は住宅を設計されたことがない。それは生活がどうあるべきかということがどうもよくわからないので、他人の家を設計する自信がなかったそうだ。この言葉の中には、戦後住宅建築家が社会改造的な熱意を持って唱道した、生活の機能による間取りの分化や畳の生活から椅子式の生活への移行などに、かなりな不信の念を持っていられるようだ。《中略》今度は自分の家だから、自分の家ということでかなり個人的なことから出発して設計したので一般の住宅に対して、どういう意味を持つか余り自信がないのだそうだ。」
丹下さんは生活をつくる難しさを理解していたがゆえに「住宅」から離れた。浜口ミホさんが語る「自信がない」丹下さんは、ある意味、分をわきまえた正直さで、結構、好きになってしまいます。丹下自邸は彼の作品中で、最も個人的なものだといえます。
逆に、吉阪さんの場合、その自邸は彼の作品中で最も啓蒙とか、典型とかを意識している。立体の「人工土地」の中に住み手が好き好きな空間をつくるというメタボリズムみたいな発想です。
建築家の姿勢の違いが鮮明に現れてしまう。「住宅」は建築家にとっての試験紙のようなものかもしれません。それにしても、浜口ミホさんの取材の的確さには舌を巻きました。
さて、大震災後の風景やその中での人々の暮らしの移り変わりというのは、例えば今和次郎のスケッチを見たり、初田亨さんや内田青蔵さんの研究書を読んでいると、多くの人が頭に描きたくなるような風景だと思います。でも、描けないでいるわけで・・・ぜひとも、想像力を交えた描写で、焼け跡に建ち始めたバラックや、昭和初期のピカピカの「モダニズム」(いわゆる《近代主義建築》ではなく、「モボ」「モガ」のほうの)のカフェーやキャバレーの生き生きした使われ方を見せてもらいたいなと、気が早いですが、待っています。
市川
こんにちは。めまぐるしく空想・連想が引き起こされてしまって(付いては行けてないんですが)、往復書簡が止まらなくなってしまいそうです。笑。市川も、いろいろ、昔の人のコトバを読みたくなりました。今後ともよろしくおねがいします。ひとまず、お礼まで。
2007/11/02 Fri 02:17 URL [ Edit ]
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