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大学セミナーハウスの眼アップ

黒川紀章さんの話題などを書き込んで間があいてしまったが、「大学セミナー・ハウスものがたり」を続けたい。『吉阪隆正とル・コルビュジエ』(王国社)からの抜粋である。
ちなみに黒川さん、1984年に刊行された『吉阪隆正集』第8巻(勁草書房)の月報に「草原を駆け抜けたライオン」という小文を寄せている。こんなことを書いている。

「私は、数多くの師や先輩や友人をもっているが、吉阪隆正という師は、師をこえた師であったといまでも思う。
若輩の私の著書を真剣に読んで、すぐ批評してくれる唯一の建築家であったことから、私は師として、尊敬しつづけることができた。〈中略〉
唯ひとつ残念なことは、先生は必ずしも作品をつくる機会に恵まれなかったということである。あるとき『タンザニアのコンペ一等おめでとう。本当にくやしい。これは僕がやりたかったんだ』といって励ましてくださったことがある。こんなときは誰れもが聞いて聞かぬふりをしたり中傷したりという日本の建築界の陰湿な雰囲気の中で、吉阪隆正という人物は本当に大きく見えた。〈後略〉」

これが頭に引っ掛かって、2004年12月の「吉阪隆正展 ― 頭と手」で10回の「夜話」を行なった時に、黒川さんにお声をおかけした。吉阪さんのお話をお聞きする範囲を、できる限り拡大しよう。そう考えてのことだった。
で、ご出席を快く了承していただいたのだが、急の海外出張が入ってしまって、回想をお聞きすることは叶わなかった。
植田実さんにも「黒川さんに吉阪さんの話を尋ねると、面白いと思うよ」とアドバイスをいただいたのだが、そのままにしてしまっている。いつかは。



大学セミナー・ハウスものがたり(1)から続く

1962年に、当時の早稲田大学総長・大浜信泉から吉阪に設計の打診があった。吉阪は少ない設計料に戸惑いながらも、大きな興味をそそられた。実はそれ以前にも、飯田は、ある建設会社に設計を依託したことがあった。だが、「こちらの考えている理念、交流するとか、もてなしをするとか、先生と一緒に学問するとか、が少しも設計に生かされていない」。即座に案を棄却した飯田にとっても、吉阪は適任だっただろう。明くる年に正式な契約が交わされた。
工事は1963年11月に始まり、1965年7月5日に開館した。吉阪の出した建築的な解答は、土地の起伏を生かし、森の中に「建物=部屋」をバラバラに配置して、敷地全体を交流の場に変えるというものだった。木々が植えられ、本館、中央セミナー館、7棟のセミナー室、100棟の宿舎、サービスセンターなどが作られた。
本館は、利用者が最初に訪れる建物である。公道から坂道を登ると、目の前に現れる。反対側には広場があって、そこから主要な建物に道が延びる。鉄筋コンクリート打ち放しの外壁は、内すぼまりに傾いている。平面は正方形だから、四角錐を地面に突き刺したように見える。
手荒い歓迎と感じるだろうか。木々の間にのぞくコンクリート壁は、とりつくろうことなく、型枠や補修の跡を残している。一部に施された窪み模様や、階高に沿って鋭角に走る直線が、ざらついた感触を一層強める。さまざまな大きさの窓が散らされ、上部にある逆三角形の孔が特異な全体形をくり返している。孔の奥には「眼」がひそむ。天窓からの通過光で輝き、訪れる者を静かに見つめる。
(つづく)

大学セミナーハウスの眼
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