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2007.02.15
妻有アートトリエンナーレの路上観察学
写真フォルダをあさっていたら、こんな写真が出てきた。

昨年の夏に「妻有アートトリエンナーレ」に行った際のスナップだ。
露天に放置された農作業機械のシートにうまい具合に苔が生えて、生け花のように見える。
こちらは同じくトラクター。もはや、草が乗車してしまっているような…。


昨年の夏に「妻有アートトリエンナーレ」に行った際のスナップだ。
露天に放置された農作業機械のシートにうまい具合に苔が生えて、生け花のように見える。
こちらは同じくトラクター。もはや、草が乗車してしまっているような…。

アートトリエンナーレのこの地区では、古い民家に前衛生け花が展示されていて、
一見すると普通の民家の扉を開けると、例えばこんな見たことの無い光景が広がっている。

日常風景の中に「前衛」が存在している。
おどろおどろしい、びっくり箱を開けるような面白味がある。
でも、無理して新しいものをやっているという感じをまったく与えない、説得力のある展示でもあった。
たぶん美術館の中だと、これほどの説得力はないのではないか。
生け花と日本家屋の素材が通じあいながら、状態を異にしているからだろう。
生きた木と草による生け花が、日本家屋が結局、死んだ木と草で形作られているという事実を浮き彫りにする。
アートの「批評性」とは、なるほど、こうしたことなのか。
そして民家を出ると、先ほどのような農作業機械のインスタレーションがあるわけで、
眼と頭は当然、これも「アート」と認識する。
どこまでが意図されたものなのか、決定不能だ。
日常がかけがえのない、面白いものだと再発見させる。
それもアートの効果と納得させられるのである。
そして、思うのは赤瀬川原平さん、藤森照信さんらの「路上観察学会」は、やはりスゴイということだった。
作るものではなく、受け取るものにアートの主導権がある。
そんなポストモダンの潮流を、何も形作らずして証明したのだから。
一見すると普通の民家の扉を開けると、例えばこんな見たことの無い光景が広がっている。

日常風景の中に「前衛」が存在している。
おどろおどろしい、びっくり箱を開けるような面白味がある。
でも、無理して新しいものをやっているという感じをまったく与えない、説得力のある展示でもあった。
たぶん美術館の中だと、これほどの説得力はないのではないか。
生け花と日本家屋の素材が通じあいながら、状態を異にしているからだろう。
生きた木と草による生け花が、日本家屋が結局、死んだ木と草で形作られているという事実を浮き彫りにする。
アートの「批評性」とは、なるほど、こうしたことなのか。
そして民家を出ると、先ほどのような農作業機械のインスタレーションがあるわけで、
眼と頭は当然、これも「アート」と認識する。
どこまでが意図されたものなのか、決定不能だ。
日常がかけがえのない、面白いものだと再発見させる。
それもアートの効果と納得させられるのである。
そして、思うのは赤瀬川原平さん、藤森照信さんらの「路上観察学会」は、やはりスゴイということだった。
作るものではなく、受け取るものにアートの主導権がある。
そんなポストモダンの潮流を、何も形作らずして証明したのだから。
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