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2006.12.26
信仰者は建て築く

清里聖アンデレ教会を訪ねた。
12月24日から25日にかけて、
この小さな教会では、4度の礼拝が行われた。
イブの夜の9時半から、キャンドルを灯してのクリスマス礼拝。
日課と賛美歌によって、キリストの誕生が祝福される。
深夜0時からのミサは、しんとした空気の中で、
特別な日の厳粛さがいっそう高まる。
日曜日と同じように、25日の6時からと10時半もミサを行なって、
終わった後の祝会(食事会)では、保育園の園児から
半世紀以上にわたる信仰者の方々まで、わいわいがやがや。
一連の行事を包み込む教会の建物が、清里らしい名品なのだ。
内部は椅子式ではなくて畳敷きで、両脇の窓には障子がはまっている。
天井にはトラス構造が露出している。
念入りな表面仕上げも、装飾らしい装飾も無い。
木でできた中で唯一、祭壇まわりだけ、石が積まれている。
ほかより一段と高いので、外から眺めたときにも、教会の力強いシンボルである。
中からは正面に洞窟が口を開いているみたいで、上端は見えない。
石積みの壁の荒々しさは、上部から注ぎ込む光によって、いっそう引き立てられる。

現在の建物が完成したのは、戦後まもない1948年。
地元の材料を用い、人々の手によって建てられた。
畳敷きの採用や、簡潔な構造、装飾の無さなどは、そうした環境の反映で、
ペンションの清里ではない、開拓地・清里の雰囲気を今に伝える。
しかも、単なる実用的な小屋で無いところが、胸を打つ。
荒く石で囲み込まれた、天に伸びる空間は、
教会建築の原点であるかのように印象的だ。
日常的なつくりと近接しているだけに、なおのこと。
建て築くとはこういうことなのだ、と納得させられる。
ミサ(洗礼を受けていないので、正しくは私には聖餐式ではないのだが)
を受けながら頭をよぎったのは、ほかの教会よりも、
むしろ前年の1947年に長野県馬籠に完成した藤村記念堂だった。
亡きものへの追想、
機能的な木の空間と、直接的には無機能な石の空間の補い合い、
地元のありあわせの力と材料による構築。
谷口吉郎が設計した藤村記念堂が、今も人々を魅了するのは、
個人のデザインを越えて、戦後直後だからこそ
ふと出現できた《建築性》に触れているからだろう。
それにしても本当に暖冬だ。
あたりの芝生には、雪の気配すら無かった。
天井にはトラス構造が露出している。
念入りな表面仕上げも、装飾らしい装飾も無い。
木でできた中で唯一、祭壇まわりだけ、石が積まれている。
ほかより一段と高いので、外から眺めたときにも、教会の力強いシンボルである。
中からは正面に洞窟が口を開いているみたいで、上端は見えない。
石積みの壁の荒々しさは、上部から注ぎ込む光によって、いっそう引き立てられる。

現在の建物が完成したのは、戦後まもない1948年。
地元の材料を用い、人々の手によって建てられた。
畳敷きの採用や、簡潔な構造、装飾の無さなどは、そうした環境の反映で、
ペンションの清里ではない、開拓地・清里の雰囲気を今に伝える。
しかも、単なる実用的な小屋で無いところが、胸を打つ。
荒く石で囲み込まれた、天に伸びる空間は、
教会建築の原点であるかのように印象的だ。
日常的なつくりと近接しているだけに、なおのこと。
建て築くとはこういうことなのだ、と納得させられる。
ミサ(洗礼を受けていないので、正しくは私には聖餐式ではないのだが)
を受けながら頭をよぎったのは、ほかの教会よりも、
むしろ前年の1947年に長野県馬籠に完成した藤村記念堂だった。
亡きものへの追想、
機能的な木の空間と、直接的には無機能な石の空間の補い合い、
地元のありあわせの力と材料による構築。
谷口吉郎が設計した藤村記念堂が、今も人々を魅了するのは、
個人のデザインを越えて、戦後直後だからこそ
ふと出現できた《建築性》に触れているからだろう。
それにしても本当に暖冬だ。
あたりの芝生には、雪の気配すら無かった。
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