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2005.09.23
無名な安藤忠雄 ― 「新建築」1971年1月号
引き続き、1971年の「新建築」を読み進めている。
この前、広告しか取り上げなかった1月号。
中身はというと、住宅特集。かつ、篠原一男さんの小特集のようでもある。
住宅特集としては、清家さんの《続・私の家》や、宮脇壇さんの《鋼の家》、
篠原さんの住宅も2棟、掲載されている。
小特集というのは、篠原一男の論に、多木浩二の篠原論が続き、
要項が発表されている新建築住宅設計競技1972の審査員も,
篠原一男なのである。当時の注目度がうかがえる。
しかし、今の学生の何パーセントが篠原さんの名を知っているのか?
そして、目線はまたも細部に向かうわけで…。
新春号とあって、巻末に前年の建築短評集(「アンケート1970」)が載る。
限られた字数だが、それがかえってピンホールカメラのように、鮮明な像を写してくれる。
冒頭には、内井昭蔵さんの出世作《桜台コートビレッジ》と、
槇文彦さんの名作《ヒルサイドテラス》。ともに称賛に包まれていたのが分かる。
末尾の日本万国博は、これと対照的。
非難 ― 万博に参加した者にとっては、限定的にしか評価していないことの表明 ―
のレトリックを競い合う場のようだ。
《生駒山宇宙科学館》― U研究室(吉阪隆正)の最後の大作
と、《第3スカイビル》― 吉阪研究室にいたこともある渡辺洋治さんの代表作
の完成も、1970年。
コメントは、結果的に応酬になっている。
渡辺洋治→U研究室
「解ったような解らないような図々しい建築」
吉阪隆正→渡辺洋治
「南北軸の高層住宅への提案、鉄でのプレハブなど今後の発展性を持つものとして」
コルゲートパイプで作った《川合健二自邸》も「新建築」でフォローされている。
「自由な考え方に頭が下がってしまう。私たちも、もう一度建築から離れて
出直したほうがいいかもしれない」(吉江憲吉)
書いたのは、大成建設を経た後、1958年に設計事務所を開き、
ホテルや保健所を多く手がけた堅実な建築家である。
川合健二と言えば、そこから多くを咀嚼した石山修武さんが思い出される。
雑誌「建築」の1970年5月号に寄せた「川合健二考」。
やや生硬な文章の中に、35年後の今まで貫かれた思想が息づいて、胸を打つ
その一方、コルゲートパイプを使った「パイプ」シリーズを作り始めている。
1970年に「パイプ♯2 当たり前のパイプ」
1971年に「パイプ♯3 もう一度当たり前のパイプ」
團伊玖麿を思わせるタイトルの後、シリーズ7番目の《幻庵》(1975)でブレイク。
以降のことは、周知のとおり。
世界のアンドーの名も見える。
アンケートには依頼の他、公募(要するに勝手に送り付ける)があったようだ。
安藤忠雄さんは3つの建築にコメントを寄せている。
だが、1つも取り上げられていない。
「その他大勢」なのである、扱いは完全に。
前年にアトリエを開設し、最初の作品は《富島邸》(1973)まで
待たなければいけないから、まあ当然だろう。
そんな中、「安藤忠雄(建築家)」という自称だけが、ぎらり光っている。
誰でも初めは無名だったのだ。ガンバレ若者よ!
みたいなオチになりました。
この前、広告しか取り上げなかった1月号。
中身はというと、住宅特集。かつ、篠原一男さんの小特集のようでもある。
住宅特集としては、清家さんの《続・私の家》や、宮脇壇さんの《鋼の家》、
篠原さんの住宅も2棟、掲載されている。
小特集というのは、篠原一男の論に、多木浩二の篠原論が続き、
要項が発表されている新建築住宅設計競技1972の審査員も,
篠原一男なのである。当時の注目度がうかがえる。
しかし、今の学生の何パーセントが篠原さんの名を知っているのか?
そして、目線はまたも細部に向かうわけで…。
新春号とあって、巻末に前年の建築短評集(「アンケート1970」)が載る。
限られた字数だが、それがかえってピンホールカメラのように、鮮明な像を写してくれる。
冒頭には、内井昭蔵さんの出世作《桜台コートビレッジ》と、
槇文彦さんの名作《ヒルサイドテラス》。ともに称賛に包まれていたのが分かる。
末尾の日本万国博は、これと対照的。
非難 ― 万博に参加した者にとっては、限定的にしか評価していないことの表明 ―
のレトリックを競い合う場のようだ。
《生駒山宇宙科学館》― U研究室(吉阪隆正)の最後の大作
と、《第3スカイビル》― 吉阪研究室にいたこともある渡辺洋治さんの代表作
の完成も、1970年。
コメントは、結果的に応酬になっている。
渡辺洋治→U研究室
「解ったような解らないような図々しい建築」
吉阪隆正→渡辺洋治
「南北軸の高層住宅への提案、鉄でのプレハブなど今後の発展性を持つものとして」
コルゲートパイプで作った《川合健二自邸》も「新建築」でフォローされている。
「自由な考え方に頭が下がってしまう。私たちも、もう一度建築から離れて
出直したほうがいいかもしれない」(吉江憲吉)
書いたのは、大成建設を経た後、1958年に設計事務所を開き、
ホテルや保健所を多く手がけた堅実な建築家である。
川合健二と言えば、そこから多くを咀嚼した石山修武さんが思い出される。
雑誌「建築」の1970年5月号に寄せた「川合健二考」。
やや生硬な文章の中に、35年後の今まで貫かれた思想が息づいて、胸を打つ
その一方、コルゲートパイプを使った「パイプ」シリーズを作り始めている。
1970年に「パイプ♯2 当たり前のパイプ」
1971年に「パイプ♯3 もう一度当たり前のパイプ」
團伊玖麿を思わせるタイトルの後、シリーズ7番目の《幻庵》(1975)でブレイク。
以降のことは、周知のとおり。
世界のアンドーの名も見える。
アンケートには依頼の他、公募(要するに勝手に送り付ける)があったようだ。
安藤忠雄さんは3つの建築にコメントを寄せている。
だが、1つも取り上げられていない。
「その他大勢」なのである、扱いは完全に。
前年にアトリエを開設し、最初の作品は《富島邸》(1973)まで
待たなければいけないから、まあ当然だろう。
そんな中、「安藤忠雄(建築家)」という自称だけが、ぎらり光っている。
誰でも初めは無名だったのだ。ガンバレ若者よ!
みたいなオチになりました。
penkou
倉方さんの著作「吉阪隆正とル・コルビュジエ」(王国社刊)を読破しました。つい読破と言いたくなるような力作で、僕の頭の中に吉阪隆正が渦巻いています。整理がついたら僕のブログでも紹介し、いろいろと考えてみたいと思っています。
ところで倉方さんの、新建築1971年の旅?は面白いですね。僕の世代は当時其の渦中にあったのですが、倉方さんの世代の論考として興味深いものがあります。
前記著作にも登場する「生駒山宇宙科学館」などが発表され、建築界(世の中も)が猛烈な勢いで動いた時代、僕たちは34年前を振り返っているのですが、それをどう位置づけるかは、これからの課題でしょう。
そしてそれを考察していくことは、2005年をどう捉えるているかということを、問われることになるのではないかと思います。
ところで倉方さんの、新建築1971年の旅?は面白いですね。僕の世代は当時其の渦中にあったのですが、倉方さんの世代の論考として興味深いものがあります。
前記著作にも登場する「生駒山宇宙科学館」などが発表され、建築界(世の中も)が猛烈な勢いで動いた時代、僕たちは34年前を振り返っているのですが、それをどう位置づけるかは、これからの課題でしょう。
そしてそれを考察していくことは、2005年をどう捉えるているかということを、問われることになるのではないかと思います。
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ieさんとこのルノー19の入院原因が明らかにされていました。>>しかしまあ...TDCセンサって検索するだけでルノーのページが出てきます出てきます...。とほほ(泣へ~、という事で(おいおい)、さっそく「TDCセンサ」で検索してみました。で、Grogle検索でトップに出た
STUDIO PLANARIA 業務記録 2005/09/27 Tue 13:46
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