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7月12日は旧小笠原伯爵邸でランチタイムでした。現代的なスペイン料理のコースは、どの皿も繊細で、イタリアンやフレンチのコースには慣れている朝日カルチャーのマダム方もご満悦。堪能しました。
素材感や酸味が太陽に似合って、見るのも食すのも、今がベストシーズン。旧小笠原伯爵邸のスパニッシュをおすすめします。

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さて、この旧小笠原伯爵邸は曾禰中條建築設計事務所の設計で、1927(昭和2)年に完成しました。施主である小笠原長幹は、最後の小倉藩藩主となった小笠原忠忱の長男にあたります。
個人的に共感が大きいのは、現在の大阪市立大学に着任する前に北九州の小倉で教えていたからで、当時務めていた西日本工業大学が近くにあったので、毎日小倉城を眺めていました。
本来の小倉城は、1866年に幕末の長州軍との戦いの中で焼け落ちました。物心つかない小笠原忠忱が家督を継いだのが翌年。現在の小倉城は、第二次世界大戦後の1959年に鉄筋コンクリートで再建されました。工場からもうもうと立ち上がる煙が戦後日本を牽引する、そんな時代に、「小倉」と「日本」のプライドが重なり合って復興されたのでした。

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話が脱線しました・・旧小笠原伯爵邸そのものも少し語らないと。
ルネサンス的な連続アーチや、中世的な縦長窓に加えて、タイル装飾やスペイン瓦といったスパニッシュ様式に特徴的な要素を破綻なく融合させています。さすが辰野金吾らと共にジョサイア・コンドルに学んだ日本人建築家の第1期生・曾禰達蔵が開いた事務所です。

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とはいっても、時代は明治ではなく、すでに昭和戦前。モダンな要素も十分に含まれています。
アメリカでの流行が1920~30年の日本に伝来して、スパニッシュ様式が流行りました。緩急を付けた親しみやすい装飾性や内外の連続性が、格式張った威厳よりも、家庭の団欒の支えとなる邸宅を求めていた当時の人々に好まれたのでしょう。
鉄筋コンクリート造の旧小笠原伯爵邸では、スパニッシュの特徴の一つである中庭から屋上まで、外部階段で自然に上がれるように設計されています。屋上に立てば、目の前の庭までが一体に感じられる。使ってこそ楽しめる、空間の連続性があります。様式主義的な各部屋別のデザインや毅然とした外観とあいまって、空間が行動することで変化していく。まるで最初からスペインレストランだったかのような柔軟さです。内部と外部がもっときっぱりと分かれている、あるいは威厳第一の明治の洋館では、こうは行きません。

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旧小笠原伯爵邸が完成した1927年に、中條精一郎の長女・ユリがソ連を訪れました。ユリは中條百合子の名で1916(大正5)年にデビューし、賞賛を浴びました。このソ連訪問によって、それまでの大正期の白樺派的な作風から、プロレタリア作家としての性格を強め、1931(昭和6)年には日本共産党に入党します。この年に竣工したのが、現在KITTEとして一部のデザインが残されている東京中央郵便局(設計は逓信省の吉田鉄郎)です。
こうやって並べてみると、大正的なものから、昭和戦前へとガラガラっと移行していったようで印象的ですね。つまり、モダンが従来の世界との連続性の下にあった大正から、断絶を特徴とする昭和戦前へと。とはいえ、まだ1931年の時点では、その断絶は社会派の生真面目さや重さだけではなく、いくぶん軽薄でモダンな格好良さを保っていたわけですが・・。
翌1932年にユリは、後に戦後の日本共産党の強力な指導者となる活動家・宮本顕治と結婚し、さらにその翌年に顕治が検挙されて獄中に留められると、後に宮本百合子と筆名を改めます。
戦後はアメリカ軍に接収される旧小笠原伯爵邸は、一瞬の絵に描いた幸福のような、そんな時期に建ちました。それをカヴァでも飲みながら堪能できるなんて、なんて幸せなことでしょう。BGMにはキリンジのハピネスでも。
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