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2010.12.23
西日本工業大学の倉方研究室紹介
2010年も残すところ1週間。
勝手に思っていたことの多くが、予想以上のスピードで実現し、いろいろ巻き込んでいただいて、留学したみたいに知見を得た気がする1年間(正確には9か月間)でした。
赴任して半年後の「建築と社会」の2010年10月号に、研究室紹介を書く機会をいただきました。
同誌は大阪に本部を置き、1917年に設立された(社)日本建築協会の機関誌です。
その「研究の風景」と題されたコラムですが、まだ卒論生も出していない段階なので、本学や北九州の概略などが主体です。
でも、それがかえってこの1年間の紹介になるかと。
この他にも色々あるので、また書きたいと思いますが、とりあえず以下に掲載します。
研究の風景 ― 西日本工業大学デザイン学部建築学科 倉方俊輔研究室
都市型キャンパスである本学
まず、本学の説明から始めよう。西日本工業大学デザイン学部建築学科は、福岡県北九州市にある私立大学である。開学は1967年。翌年に建築学科が発足して今年で43年目になる。長きにわたり、実直で有為な人材を輩出してきた。
とはいえ、「北九州市にある大学」と呼べるようになったのは、ここ5年のことだ。開学から長い間、工学部のみの単科大学として推移し、キャンパスは北九州市内ではなく、隣接する福岡県京都郡苅田町(みやこぐんかんだまち)に位置していた。建築学科が今の場所に移ったのは2006年である。従来の工学部から建築学科を抜き出し、2004年に新設した情報デザイン学科と共にデザイン学部を設け、デザイン学部としての2つめのキャンパスを北九州市小倉北区に置いたのだ。この小倉キャンパスは、市街地再開発事業によって生まれた「リバーウォーク北九州」の一角を占め、教室等はポストモダニズムの巨匠、マイケル・グレイブスがデザインした建物の中に積み重なっている。JR小倉駅から歩いて10分。都市型のキャンパスだ。

21世紀に始まった北九州の建築
さて、読者の皆さんは、九州大学、福岡大学、九州産業大学など、福岡市に建築の学科があることはご存じでも、北九州の建築学科の印象は薄いのではないだろうか? それも無理はない。ここ10年で誕生したばかりなのだから。
現在、北九州市には建築を学ぶ学科を持つ大学が3校ある。一つは5年前に北九州市小倉北区に移ってきた本校。3校中で最も長い歴史を持つ。二つには北九州市立大学国際環境工学部建築デザイン学科で、北九州市若松区のひびきのキャンパスを拠点とする。国際環境工学部の発足に伴い、北九州学術研究都市の中に新設された。当初は「環境空間学科」という名称だったが、2008年に「建築デザイン学科」に変更し、建築の学科ということを明確にしている。三つ目が北九州戸畑区の九州工業大学工学部建設社会工学科建築コースで、2008年に従来からの土木工学系の講座に加わり、この伝統ある国立大学に新たな1ページを加えた。なお、北九州市八幡西区の九州共立大学にも建築学科があったが、2008年の工学部全体の募集停止に伴い、消滅の予定だ。
改めて確認すると、北九州市は福岡県の中で、福岡市と並んで政令指定都市になっている。複数の政令指定都市を持つ県は他にもある。大阪市と堺市、横浜市と川崎市と相模原市などだ。けれど、北九州市と福岡市のように独立した圏域として存在する例は他にない。両市は優れたインフラによってつながれている。小倉と博多の間は新幹線でわずか15分だ。それと共に、地理的にも文化的にも別個の良さを持っているのが、日本全国から見ても面白いところだ。
ただ、現時点で、北九州の《建築》が弱いことは認めざるを得ない。建築学科が3つありながら、どれも21世紀の歴史しか持たないということもあるが、それだけではない。企業および市民の建築への理解、ないしデザインに対する認識は福岡と比べても脆弱といえる。継続する建築あるいはデザインの系譜が北九州にあるのかどうかも定かではない。古くは辰野金吾から、レーモンド、村野藤吾、磯崎新といった全国級のタレントの作品には事欠かないのだが・・。外部から見たイメージも、これと同様ではないか。商業・サービス業に重きをおいてきた福岡の成り立ちと、製造業に重きを置いてきた北九州の違いが、ここに反映しているだろう。
とはいえ、仮に21世紀しかないとしたら、それは未来があるということである。北九州は独自の歴史を持つ。門司や若松などには、活況を呈した時代の近代建築や和風建築が残る。海岸沿いには独特の景観を見せる工場群があり、自然と人工を単純に分けられないような開発と調和の都市を見ることができる。考察され、使われるべき近現代の建築と都市の遺産は、むしろ福岡より北九州のほうが多いだろう。その歴史や地勢、今も続くものづくりの流れは、次の建築を産むリソースになりはしないか。近代の北九州がそうしてきたように、新たなチャレンジとして、北九州に《建築》を打ち立てられるのではないか。その際、まだ若い3つの建築学科は大きな期待を担っているに違いない。

研究室活動の戸惑い
さて、ここまで分かったようなことを書いた。しかし、私にその資格があるのか。なにせ、まだ着任して半年だ。正直、原稿依頼を受けるかどうかも悩んだ。本学と北九州を少しでも知ってもらえればと、結局は筆を執ったのだが。
私事だが、生まれてからずっと東京で暮らしてきた。今年4月から初めて、それ以外の土地に住んでいる。結果、予想以上に何の問題もない。急速に多くの建築家や研究者と知り合うことができた。本学の校風は風通しが良いので和む。景色も食べ物も交通の便も良く、肌に合う。それに皆さん動き回っているから意外なところでも会える。インターネットもeメールもtwitterもあって、今までの人のつながりが意外なほどに途切れないのが現代だ。
ただ、戸惑うことが一つだけある。本連載の焦点になっている研究室活動だ。理由もほぼ分かっている。一つは私が初心者だということだ。助手にも就いていないので、経験が浅い。二つ目は土地が違うということだ。これまでに旅行ではたびたび来ていたが、地元に密着した研究をする上では、知識も人脈もゼロみたいなものだ。そして三つ目は、大学の性格が私がこれまで非常勤などで行っていた大学とは異なることだ。私の研究室では必須にしたが、本学では卒業論文は必ずしも義務ではない。自校の大学院に進むのは例外的だ。当然助教もいないので、研究の継続性という面では難がある。基本的には教育大学なのである。そして、だからこそ、社会に送り出す前の研究室活動は、教育の面でも重要だ。それは分かっているのだが・・。

現地のモノと史料に体当たり
4月、顔も合わせたことがない新任教員の研究室に、自ら志望して卒論生が集まってくれた。さっそく週に1回のゼミを行う。みな良い学生たちだ。言われたことをしっかりやってくる。だが、今ひとつ打ち解けない。
よしっ、ということで、対馬にゼミ旅行に行くことにした。本学の学生の出身地は幅広く、九州一円や沖縄、四国、中国地方からもやってくる。卒論生の一人に対馬の出身者がいた。対馬は他の誰も行ったことが無い。私も無い。現地での発見の練習として、あえて何も調べないで向かうことにした。対馬出身の彼は「何も面白いものないですよ」と言いながらも嬉しそうに、ちょっと緊張して、現地で回るルートをお膳立てしてくれた。博多港から対馬まではフェリーで4時間半、高速船ならわずか2時間強だから、東京から少し郊外に行くくらいの時間だ。
そうしたら、なんと面白いことか。石の多様な用法、独特な民家の間取り、集落のあり方、現地の生態系に対応した民具、自然と呼応した信仰の形・・。中でも珍しい煉瓦造家屋に目が止まり、再訪して聞き取りや実測を進めている。建物は対馬の近代史を物語る。学生との距離も少し縮まったような気がする。
北九州に関する研究も進めている。一つが北九州市門司区にある門司ゴルフ倶楽部ハウスだ。1960年竣工の建物と前後の経緯について当時を知る関係者から話を伺い、倶楽部の持つ資料を調査している。見えてくるのは、単にアントニン・レーモンドの作品というだけでない、戦後の北九州の歴史との脈絡だ。
小倉における商圏の形成過程も把握しつつある。こちらに来て興味深かったのはアーケードに対する「銀天街」というネーミングで、その名称の広がりから北九州の影響圏を探る研究も進行中だ。
どこにでも考えるべきことはある。しかも、北九州は明治以降に各々発展した旧五市が合併した、ほぼ近代しかない街である。にもかかわらず、近代の都市・建築の研究が厚いとは言えない。研究は広く他都市との比較も含めて、日本の近代を捉える際に重要な視点を提供するだろう。加えて街の基盤を見出し、継承する街の未来を生み出す素地にもなるだろう。そんなことを考えながら、カンに頼った、現地のモノと史料に体当たりしての研究室活動は続く。

地道で大胆な大学という存在
幸いなことに、赴任の前後から九州でのイベントに多くお誘いいただいた。4月下旬には建築家の井手健一郎氏(rhythmdesign)らが福岡で開催している「DESIGNING」展のシンポジウムに登壇し、東京や福岡の建築家と濃密な意見交換を行うことができた。同じ頃、熊本大学で九州で初めてとなる建築史学会大会が開かれ、九州の建築史研究者にご挨拶ができた。6月初めには、松村秀一氏他によるリノベーションシンポジウムの第2回が鹿児島で行われ、コメンテーターとして多くの情報を得た。8月上旬には松岡恭子氏(spinglass architects)が中心となって進めている近現代建築ツアーMATfukuokaに参加した。同月下旬には、福岡県の30代建築家の5人展「5×2020」でモデレーターを務めた。10月上旬にはJIAの全国大会が小倉で開催され、続いて日本建築学会文化週間のシンポジウムが本学で行われる。
こうしたことを通じて、多くの方と知り合うことができた。半年前に直接会ったことのある九州の知り合いが2、3人だったことを思うと、自分でも驚く。この間、シンポジウムや非常勤講師などで月に1、2度づつ東京や関西に赴き、イベントの準備で福岡を頻繁に訪れていたこととあわせて、北九州の個性についても考えることができた。
7月からは本学の地の利の良さを生かして、公開連続セミナー「デザイン・建築の現在」をスタートさせた。聴講・懇親会とも無料とし、本学の学生だけでなく、地域の大学や実務者の方々の刺激となること、新たな出会いとして機能することを狙っている。広島から谷尻誠氏をお招きした第1回には、遠く佐賀や長崎からも学生が訪れ、反響の大きさを実感している。サポートしてくれた学生達も生き生きしていた。こうしたこともきっかけに、北九州にある3つの大学がもっと情報交換できるような建築学生団体TONICAを後押ししたいと考えるのだ。
北九州という街には大きなポテンシャルがあるはずだ。その時に、つまり存在するものを認識し、読み替えていく際に、建築・都市的な思考が果たすべき役割は大きいだろう。
だが、北九州にはまだ《建築》が十分とは言えない。同時に、これほどそれが待ち望まれている街もそうない。その中にあって、地道に人を育て、他方では大胆に動ける大学という存在はますます重要に違いない。
勝手に思っていたことの多くが、予想以上のスピードで実現し、いろいろ巻き込んでいただいて、留学したみたいに知見を得た気がする1年間(正確には9か月間)でした。
赴任して半年後の「建築と社会」の2010年10月号に、研究室紹介を書く機会をいただきました。
同誌は大阪に本部を置き、1917年に設立された(社)日本建築協会の機関誌です。
その「研究の風景」と題されたコラムですが、まだ卒論生も出していない段階なので、本学や北九州の概略などが主体です。
でも、それがかえってこの1年間の紹介になるかと。
この他にも色々あるので、また書きたいと思いますが、とりあえず以下に掲載します。
研究の風景 ― 西日本工業大学デザイン学部建築学科 倉方俊輔研究室
都市型キャンパスである本学
まず、本学の説明から始めよう。西日本工業大学デザイン学部建築学科は、福岡県北九州市にある私立大学である。開学は1967年。翌年に建築学科が発足して今年で43年目になる。長きにわたり、実直で有為な人材を輩出してきた。
とはいえ、「北九州市にある大学」と呼べるようになったのは、ここ5年のことだ。開学から長い間、工学部のみの単科大学として推移し、キャンパスは北九州市内ではなく、隣接する福岡県京都郡苅田町(みやこぐんかんだまち)に位置していた。建築学科が今の場所に移ったのは2006年である。従来の工学部から建築学科を抜き出し、2004年に新設した情報デザイン学科と共にデザイン学部を設け、デザイン学部としての2つめのキャンパスを北九州市小倉北区に置いたのだ。この小倉キャンパスは、市街地再開発事業によって生まれた「リバーウォーク北九州」の一角を占め、教室等はポストモダニズムの巨匠、マイケル・グレイブスがデザインした建物の中に積み重なっている。JR小倉駅から歩いて10分。都市型のキャンパスだ。

21世紀に始まった北九州の建築
さて、読者の皆さんは、九州大学、福岡大学、九州産業大学など、福岡市に建築の学科があることはご存じでも、北九州の建築学科の印象は薄いのではないだろうか? それも無理はない。ここ10年で誕生したばかりなのだから。
現在、北九州市には建築を学ぶ学科を持つ大学が3校ある。一つは5年前に北九州市小倉北区に移ってきた本校。3校中で最も長い歴史を持つ。二つには北九州市立大学国際環境工学部建築デザイン学科で、北九州市若松区のひびきのキャンパスを拠点とする。国際環境工学部の発足に伴い、北九州学術研究都市の中に新設された。当初は「環境空間学科」という名称だったが、2008年に「建築デザイン学科」に変更し、建築の学科ということを明確にしている。三つ目が北九州戸畑区の九州工業大学工学部建設社会工学科建築コースで、2008年に従来からの土木工学系の講座に加わり、この伝統ある国立大学に新たな1ページを加えた。なお、北九州市八幡西区の九州共立大学にも建築学科があったが、2008年の工学部全体の募集停止に伴い、消滅の予定だ。
改めて確認すると、北九州市は福岡県の中で、福岡市と並んで政令指定都市になっている。複数の政令指定都市を持つ県は他にもある。大阪市と堺市、横浜市と川崎市と相模原市などだ。けれど、北九州市と福岡市のように独立した圏域として存在する例は他にない。両市は優れたインフラによってつながれている。小倉と博多の間は新幹線でわずか15分だ。それと共に、地理的にも文化的にも別個の良さを持っているのが、日本全国から見ても面白いところだ。
ただ、現時点で、北九州の《建築》が弱いことは認めざるを得ない。建築学科が3つありながら、どれも21世紀の歴史しか持たないということもあるが、それだけではない。企業および市民の建築への理解、ないしデザインに対する認識は福岡と比べても脆弱といえる。継続する建築あるいはデザインの系譜が北九州にあるのかどうかも定かではない。古くは辰野金吾から、レーモンド、村野藤吾、磯崎新といった全国級のタレントの作品には事欠かないのだが・・。外部から見たイメージも、これと同様ではないか。商業・サービス業に重きをおいてきた福岡の成り立ちと、製造業に重きを置いてきた北九州の違いが、ここに反映しているだろう。
とはいえ、仮に21世紀しかないとしたら、それは未来があるということである。北九州は独自の歴史を持つ。門司や若松などには、活況を呈した時代の近代建築や和風建築が残る。海岸沿いには独特の景観を見せる工場群があり、自然と人工を単純に分けられないような開発と調和の都市を見ることができる。考察され、使われるべき近現代の建築と都市の遺産は、むしろ福岡より北九州のほうが多いだろう。その歴史や地勢、今も続くものづくりの流れは、次の建築を産むリソースになりはしないか。近代の北九州がそうしてきたように、新たなチャレンジとして、北九州に《建築》を打ち立てられるのではないか。その際、まだ若い3つの建築学科は大きな期待を担っているに違いない。

研究室活動の戸惑い
さて、ここまで分かったようなことを書いた。しかし、私にその資格があるのか。なにせ、まだ着任して半年だ。正直、原稿依頼を受けるかどうかも悩んだ。本学と北九州を少しでも知ってもらえればと、結局は筆を執ったのだが。
私事だが、生まれてからずっと東京で暮らしてきた。今年4月から初めて、それ以外の土地に住んでいる。結果、予想以上に何の問題もない。急速に多くの建築家や研究者と知り合うことができた。本学の校風は風通しが良いので和む。景色も食べ物も交通の便も良く、肌に合う。それに皆さん動き回っているから意外なところでも会える。インターネットもeメールもtwitterもあって、今までの人のつながりが意外なほどに途切れないのが現代だ。
ただ、戸惑うことが一つだけある。本連載の焦点になっている研究室活動だ。理由もほぼ分かっている。一つは私が初心者だということだ。助手にも就いていないので、経験が浅い。二つ目は土地が違うということだ。これまでに旅行ではたびたび来ていたが、地元に密着した研究をする上では、知識も人脈もゼロみたいなものだ。そして三つ目は、大学の性格が私がこれまで非常勤などで行っていた大学とは異なることだ。私の研究室では必須にしたが、本学では卒業論文は必ずしも義務ではない。自校の大学院に進むのは例外的だ。当然助教もいないので、研究の継続性という面では難がある。基本的には教育大学なのである。そして、だからこそ、社会に送り出す前の研究室活動は、教育の面でも重要だ。それは分かっているのだが・・。

現地のモノと史料に体当たり
4月、顔も合わせたことがない新任教員の研究室に、自ら志望して卒論生が集まってくれた。さっそく週に1回のゼミを行う。みな良い学生たちだ。言われたことをしっかりやってくる。だが、今ひとつ打ち解けない。
よしっ、ということで、対馬にゼミ旅行に行くことにした。本学の学生の出身地は幅広く、九州一円や沖縄、四国、中国地方からもやってくる。卒論生の一人に対馬の出身者がいた。対馬は他の誰も行ったことが無い。私も無い。現地での発見の練習として、あえて何も調べないで向かうことにした。対馬出身の彼は「何も面白いものないですよ」と言いながらも嬉しそうに、ちょっと緊張して、現地で回るルートをお膳立てしてくれた。博多港から対馬まではフェリーで4時間半、高速船ならわずか2時間強だから、東京から少し郊外に行くくらいの時間だ。
そうしたら、なんと面白いことか。石の多様な用法、独特な民家の間取り、集落のあり方、現地の生態系に対応した民具、自然と呼応した信仰の形・・。中でも珍しい煉瓦造家屋に目が止まり、再訪して聞き取りや実測を進めている。建物は対馬の近代史を物語る。学生との距離も少し縮まったような気がする。
北九州に関する研究も進めている。一つが北九州市門司区にある門司ゴルフ倶楽部ハウスだ。1960年竣工の建物と前後の経緯について当時を知る関係者から話を伺い、倶楽部の持つ資料を調査している。見えてくるのは、単にアントニン・レーモンドの作品というだけでない、戦後の北九州の歴史との脈絡だ。
小倉における商圏の形成過程も把握しつつある。こちらに来て興味深かったのはアーケードに対する「銀天街」というネーミングで、その名称の広がりから北九州の影響圏を探る研究も進行中だ。
どこにでも考えるべきことはある。しかも、北九州は明治以降に各々発展した旧五市が合併した、ほぼ近代しかない街である。にもかかわらず、近代の都市・建築の研究が厚いとは言えない。研究は広く他都市との比較も含めて、日本の近代を捉える際に重要な視点を提供するだろう。加えて街の基盤を見出し、継承する街の未来を生み出す素地にもなるだろう。そんなことを考えながら、カンに頼った、現地のモノと史料に体当たりしての研究室活動は続く。

地道で大胆な大学という存在
幸いなことに、赴任の前後から九州でのイベントに多くお誘いいただいた。4月下旬には建築家の井手健一郎氏(rhythmdesign)らが福岡で開催している「DESIGNING」展のシンポジウムに登壇し、東京や福岡の建築家と濃密な意見交換を行うことができた。同じ頃、熊本大学で九州で初めてとなる建築史学会大会が開かれ、九州の建築史研究者にご挨拶ができた。6月初めには、松村秀一氏他によるリノベーションシンポジウムの第2回が鹿児島で行われ、コメンテーターとして多くの情報を得た。8月上旬には松岡恭子氏(spinglass architects)が中心となって進めている近現代建築ツアーMATfukuokaに参加した。同月下旬には、福岡県の30代建築家の5人展「5×2020」でモデレーターを務めた。10月上旬にはJIAの全国大会が小倉で開催され、続いて日本建築学会文化週間のシンポジウムが本学で行われる。
こうしたことを通じて、多くの方と知り合うことができた。半年前に直接会ったことのある九州の知り合いが2、3人だったことを思うと、自分でも驚く。この間、シンポジウムや非常勤講師などで月に1、2度づつ東京や関西に赴き、イベントの準備で福岡を頻繁に訪れていたこととあわせて、北九州の個性についても考えることができた。
7月からは本学の地の利の良さを生かして、公開連続セミナー「デザイン・建築の現在」をスタートさせた。聴講・懇親会とも無料とし、本学の学生だけでなく、地域の大学や実務者の方々の刺激となること、新たな出会いとして機能することを狙っている。広島から谷尻誠氏をお招きした第1回には、遠く佐賀や長崎からも学生が訪れ、反響の大きさを実感している。サポートしてくれた学生達も生き生きしていた。こうしたこともきっかけに、北九州にある3つの大学がもっと情報交換できるような建築学生団体TONICAを後押ししたいと考えるのだ。
北九州という街には大きなポテンシャルがあるはずだ。その時に、つまり存在するものを認識し、読み替えていく際に、建築・都市的な思考が果たすべき役割は大きいだろう。
だが、北九州にはまだ《建築》が十分とは言えない。同時に、これほどそれが待ち望まれている街もそうない。その中にあって、地道に人を育て、他方では大胆に動ける大学という存在はますます重要に違いない。
出典:「建築と社会」2010年10月号(日本建築協会)
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