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「アルゴリズム」という言葉を最近、建築界で耳にすることが多い。
そこで、コスタス・テルジディス『アルゴリズミック・アーキテクチュア』(彰国社、2010)を買ってしまった。ハズレだった。

『アルゴリズミック・アーキテクチュア』の著者はハーバード大学GSD准教授で、序文を慶應義塾大学SFC教授の池田靖史さんが寄せ、監訳者は慶應義塾大学部環境情報学部准教授の田中浩也さん、訳者には建築家の松川昌平さんらと、海外やコンピュータ通の蒼々たる顔ぶれである。これに「建築の新たな探求を始めるために。」という帯文句が踊り、税込2,835円という安くはない定価が付いている。
だったら、期待してしまうではないか。私のように設計をしないし、コンピュータにも詳しくない、ドメスティックな人間が知らない所で、現実には建築をめぐるこんな事態が進展していたのか! と驚嘆させられることを。

しかし、残念ながら、技術的あるいは思想的な新しさに打たれることは無かった。こういう時、世界は悲しく見えてくる。いや、もちろん、訳者や出版社の無償に近い努力は想像できるし、内容に得るものがないわけでもない。論じているテーマに可能性が無いとも思わない。だからこそ、これが現在の最先端や最良とは考えたくないし、そう思わせて欲しくない。そう考えて、記事を綴るわけだが…。

本書の内容は前半分(Chapter 1~3)と後半分(Chapter 4~6)に分かれていて、それに補遺的なChapter 7「エピローグ/マルチローグ」が付随する。
面白いのは、前半分では、コンピュータやアルゴリズムの具体的な話は登場しないことだ。真のデザインとは何か、オリジナリティとは何か。ギリシア系の著者らしく、ギリシア語の原義も参照して論じるわけだが、言っていることは、良くも悪くも難しくない。基本的には、建築をある程度知っている人ならば分かっているような、他の本にも書いてある事柄だ。
その上に立って、後段に続くような著者の主張はどこにあるのか。以下にまとめてみた。けっこう丁寧に。

「アルゴリズムは『思考法』である」(p.64)それは「有限のステップで問題を解くプロセス」(p.39)であって、こうしたデジタルなデザインは、必ずしもコンピュータでなくてはできないわけではない。「本当の意味での『デジタル』とは、プロセスを離散的なパターンに還元し、コンピュータ上で利用できるように記述することである」(p.65)。「言い換えると、デジタルとはプロセス(過程)でありプロダクト(産物)ではない」(p.66)からだ。
コンピュータの真の特徴は、物事をコンピュータが理解できるようにデジタル化し、アルゴリズムにしてやれば、それを飽くことなく高速で推し進めることができるという点にある。それは「鋭さ、思いつき、聡明さ」(p.41)といった人間の賢さとは異なるものである。アルゴリズム自体は「厳密、明確、論理的」だが、それは圧倒的な量によって、予測不可能な結果を生み出す。例えば自己再帰的な演算や確率的探索を繰り返すことで「問題に対する解法が未知、不明瞭かつ定義が困難な場合」(p.39)にも「可能性のある解に向かっていけるような、道筋を探しあてる手段として」(p.39)利用できる。それは人間とは異なる他者としての知性のあり方であって、人間と共同することで、これまで予想も付かなかった複雑な問題を処理することも、建築が持つべき生産的な曖昧性をつくり出すことも可能になるだろう。これこそが建築界が真に向き合うべき「コンピュテーション」であって、それは例えばマウスを使った3次元モデルの操作のようにコンピュータをただ手足として使い、人間の頭の中にすでにある物事を現実化したり、正当化したりするような「コンピュータライゼーション」とは根本的に異なる。前者のためには、アルゴリズムという言葉でコンピュータという乗り物を乗りこなす「ツール・メイカー」でなくてはならない。それに対して、コンピュータをただ忌み嫌ったり、あるいはコンピュータソフトをただ利用したり、デジタルな現象を人文学の言葉で説明するだけの「ツール・ユーザ」は、あまりに人間中心主義にとらわれている。
「伝統的な人間中心主義は、デザインにおいても長い成功の歴史がある。一方で、コンピュータ的な戦略は、排他的でも、対立するものでも、制約的なものでもなく、むしろ外から来た異質で別種のものなのである。だから、この両者を比較することができない。両者の対立を考えるよりも、両者の戦略を組み合わせることで、より上手に生かすことができるのではないだろうか。」(p.55)

以上、多少長めにまとめてみたが、著者の言いたいことは最終段の引用部だけでもこと足りる。
著者は「アルゴリズム」で何であり、どういう可能性を持つかを丁寧に説明しているのだ・・・そう言えば言えるだろうが、これで本の半分である。いかにせん長すぎやしないか?
主張が、もう建築家は要らない、コンピュータの自動生成だけで十分で、将来の設計者はすべてプログラマーになるというのだったら面白かったのだが、人間の判断が介入すると述べているのだから、そう過激な話でもない。処理する機械でなく、人間と異なるやり方で考える機械としてコンピュータを使える可能性があるというのも、今を生きている人にとっては当たり前の話ではないか。では、実際にコンピュータないしはアルゴリズム的手法は、建築デザインに「使える」のか?

後半では急にアルゴリズムを使ったデザインの具体的な解説に入るのだが、書かれているのは、すぐに理解できる程度の基礎的な操作で、目新しさはない。アルゴリズムを用いて生成されたという建築のCG画像も正直、魅力を感じなかった。
やっているのは、たかだか礼拝堂のルーバーの形状を決めたり、高層ビルのヴォイドの形をつくったりというくらいのものだ。こんな程度なら、別にコンピュータを相棒にしなくても良いだろう。
できあがったものに形の美しさが無いといったことを言いたいのではない。まだ試行段階にあること、そして原著が2006年と古いことを考慮に入れるべきだろう(ドッグイヤーで約30年後の現在はだいぶ変わっていることを期待している)。
それでもなお、不可知のものが姿を見せるような前半の物言いと、後半の間に、大きなギャップを感じざるを得ない。そして、わくわくしないままに本書は終了してしまう。

前半の議論は、他領域ですでに行われていることだ。
量が、十分な複雑さを備えた質と呼べるものを生むという発見は、1970年以後の「新しい科学」でなされた。その中に複雑系やネットワーク科学などが含まれる。それはコンピュータに触発され、加速されたものだが、根本的な人間中心主義からの転換という思想的なものであり、そもそもそうした思想的転換が、伝統的な哲学や思想といった人文主義のジャンルからではなく、科学から始まったところに現在の時代的特質が見出せるだろう。
これについては『建築雑誌』2009年5月号「特集 非線形・複雑系の科学とこれからの建築・都市」の藤本由紀さん、藤本由紀さん、池上高志さん他のインタビューを参考に、提示した参考文献を読めば、本書より平易に、より深く理解できる。池田靖史さんにも「アルゴリズミック・デザイン」の論考を寄せていただいた。

後半も、想像するにコンピュータサイエンスでは周知のことではないか。
そして、建築をどうやってつくったかは、利用者にとってどうでも良いことだ。
もっとあっと驚くことは無いのか。現段階のプレゼンテーションでは、いわゆる巨匠型の建築家の作品や、自然にできた町並みや建物のほうが、結果的にはよっぽど、「他者性」を内包したジェネレイターとして効果的だろうと感じてしまう。
少なくとも、どういう点で結果が今までを超える可能性があるのか。「アルゴリズミック・アーキテクチュア」ないし「アルゴリズム」を論じるならば、それは伝えるべき義務があるのではないか。建設が合理化できるとか、環境にやさしいとか、建設までの住民の抵抗が少なくなるとか、都合の良いところだけビルディングの話になるのではなくて・・。
でないと、「アルゴリズミック・アーキテクチュア」が、いつものサムシング・ニュー、つまり研究費のための研究や業界覇権の獲得行為と誤解されかねないと、余計なお世話ながら心配してしまう。

それと、本書を読んで感じるのは「こちら」と「あちら」の状況の差である。著者は繰り返し、真のコンピュータの利用はそのようなものではないと論駁している。それが冗長さを生み出していて、あちらにおける仮想敵の強さを思い知る。
しかし、その敵、つまり人文主義的な大文字の「建築」の伝統や、ピーター・アイゼンマン、グレッグ・リン、フランク・ゲーリーら「コンピュータライゼーション」派も、日本にはない。
ということは、目指すことが同じでも闘う相手が異なることになる。本書の訳出には意義があるが、立場の直訳はこの国で空回りするだろう。そのあたりのつなぎは重要だと思う。

確かに、本書の内容には可能性がある。長い傾向として、従来の人間中心主義が否定されゆくだろうと思い、建築もそれを受け止めるべきだとは考える(これについては『建築雑誌』2009年5月号の解題に書いた)。学問が急に進むものでないことも分かる。それは認める。でも、これでは・・。
本記事の後半では、『アルゴリズミック・アーキテクチュア』が「アルゴリズミック・アーキテクチュア」に変わってしまったが、前者は批判(ないしは過去の産物という認識)、後者には期待を抱いているのだ。
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