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ついうっかりやったことが議論を呼んでいるような(いい意味で)、「建築女子」による展覧会「私たちのアトリエ...女子だけ?!」(南洋堂書店、2010年3月23~27日)。
mosakiの田中元子さんに良い投げかけをしていただき、補足の文章を書く気になったのだが、twitterだと140字でぶつ切りになって読みづらいので、ここに掲載。背景については、twitter上の議論を追って下さい。
これまでの「建築浴のおすすめ」では、こんな自律性を欠いた「不親切」なことはしなかったので、blogとtwitterの主従関係の変化が如実に現れていますね。
文中に出ているコスタス・テルジディス『アルゴリズミック・アーキテクチュア』(彰国社、2010)については、気が向いたら、明朝に感想を書くかもしれません。



田中元子さん(mosaki)、自覚してなきゃいけないんじゃなくて、なぜ「自覚してなきゃいけない」と我々が考えてしまうか、ということです。
「建築女子」が呼称の大きさや自分が何を見せているか(作品? 自分?)を自覚していないことに、私の3/25のblog記事で設定した前半の認識も、門脇耕三さん(首都大学東京助教)や石川翔平さん(東京工業大学大学院)や、他の多くの方の批評も集中していますよね。でも考えてみると、それは論ずべき対象そのものの話ではないわけです。そして、今回、展示物より面白かったのは(失礼!)その断層で、そこに建築の現在が露呈しているのかもしれません。
田中元子さんも、他のジャンルを様々に取材していますから、建築以外のデザインやアートが現在、建築ほど「自覚」「自覚」ととやかく言わないのを知っていますよね。なんで、建築だけ「自覚」がここまで問題になるのでしょう。
もちろん、「自覚」が、建築の前進にとって必要であることは一定度あって、歴史家や教育者としての私はそれをつねづね言っているので、これは一段レベルが高い話だということを分かった人だけが読んでほしいのですが、本来つくられた結果には関係ない「自覚」、言い換えると自分の声が自分で聞ける(少なくともそのようなポーズをとる)ことが、ここまで「建築」で問われるとしたら、「建築」は最後のオトコのジャンルなのかもしれません。
このあたりは『アルゴリズミック・アーキテクチュア』が批判している旧来の「人間中心主義」と関連して(でも本自体は3000円の価値がある内容とは正直思えない)、われわれが「建築」らしさと考えている中に、西欧近代的な「男性」=「人間」像がだいぶ入り込んでいるのではないかと。
そこにまさに自覚的でないと、もう進んでいる現実を捉え損なうと思ったり・・だって《建築》は、今まで言った「建築」よりもっと大きなものですから。
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