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「建築雑誌」2009年5月号

難波和彦さんが「青本往来記」で、私が担当した「建築雑誌」2009年5月号の特集「非線形・複雑系の科学とこれからの建築・都市」を評されていた。人に教えてもらったのが昨日だったので、レスポンスが遅れましたことを、まずはお詫び。

で、読んでみた・・・のだが、解釈がなかなか難しい。正確を期すため、まずは引用させていただく。



『建築雑誌』5月号の特集「非線形・複雑系の科学とこれからの建築・都市」を読む。建築史家の倉方俊輔さんの責任編集で、興味深いテーマなのだが、いささか物足りない。それにしても建築史家はなぜこの種の科学に惹かれるのだろうか。これまでにも建築史家が同種のテーマを扱った『複雑系の建築言語』(チャールズ・ジェンクス:著 工藤国雄:訳 彰国社 2000)や『二〇世紀の建築思想 キューブからカオスへ』(杉本 俊多:著 鹿島出版会 1998)といった著作があるが、いずれも生半可なキワモノに終わっている。その理由は新しい科学を建築のフォルマリスムに短絡させているからである。新しい数学や科学を建築に導入する場合、単なるデザインの手法としてとらえたのでは、新奇な形態を生み出す道具で終わってしまう。非線形や複雑性の科学が扱っているのは、結果ではなくプロセスである。僕の考えでは「決定論的カオス」に象徴されるように、明解な論理の自己言及的な反復が、最終的に予測不可能性をもたらすという脱構築的なプロセスを、建築と都市計画の関係の新しいモデルと見なすのが、もっとも射程距離の長いとらえ方だと思う。この問題は「批判的工学主義」やITにおける「アーキテクチャ権力」と無関係ではないし、さらには民主主義社会における決定プロセスのモデルとしても拡大解釈できるはずである。特集記事の中では、平田晃久のエッセイがこのあたりのヴィジョンを部分的ではあるが的確にとらえている。要するに非線形と複雑性の科学は、社会主義国家の崩壊に象徴されるモダニズムの計画概念の変容と密接に関係しているのだ。建築史家ならば、それくらいの歴史的視野を持ってもらわなくては困る。

難波和彦「青本往来記」2009年05月13日(水)より



上の文章は、非線形・複雑系と建築の関係に焦点を当てた「建築雑誌」2009年5月号の特集の主旨を建築史家が同種のテーマを扱った過去の二冊と同一視して、それらはみな非線形・複雑系の可能性の中心を捉え漏らしていると、批判している。これだけ読むと、そう解釈ができる。

ただ、不思議に思うことがある。実はこうだ、として語っていることが、私が特集で主張した内容とまったく同じなのである。

まずは「その理由は」から「プロセスである」までの3~6文目。「新しい科学」(特集で「非線形・複雑系の科学」と同義で使っている言葉)は「フォルマリスム」や「新奇な形態」に短絡させるべきものではない、なぜならそれは「結果ではなくプロセス」を扱っているのだからという主張こそ、4~5ページの拙稿(「解題」)で書いている内容だ。
なぜなら、少し本を読んでいるような人間であれば、「複雑系」と聞いた瞬間に、「複雑な形のあれでしょ・・・なんで今さら・・・建築の創造には関係ないよね結局・・・アラン・ソーカルくらい読んでないのかしら?」といった脊髄反応が起こることは予想がつく。
だから、最初になるだけ誤解を解くべく、「これら(非線形・複雑系の科学:引用註)の最大の共通点は〈中略〉単純な要素と構造から成り立っているのに複雑な挙動を示すような現象を解き明かす科学ということだろう」と書いた。「時間という素因」が含まれていることを強調した。「複雑系」ではなく、「非線形」という語を前面に出した ― まぁそれでも「ああ直線じゃないのね」と「理解」する方はいるかもしれないけれど。

そして、続く「僕の考えでは」から「拡大解釈できるはずである」までの7・8文目も、特集中で前面に出した主張と同じである。「明解な論理の自己言及的な反復が、最終的に予測不可能性をもたらすという脱構築的なプロセス」を「非線形・複雑系の科学」が明確にしたという事実は、蔵本由紀さんがインタビューの締めで強調されている。私も特集の後書き(「編集室」)でも、わざわざこれが一番重要な内容だと書いた。「決定プロセスのモデルとしても拡大解釈できる」というのは、続く増田直紀さんが語っている。しかも、目立つようにして。
当然ながら、インタビュー記事には編者の主観が入らざるをえない。例えば、以上の2つの内容にしても、実際に話者が述べたことであるし、出版までに著者校を介しているのでご承認いただいたことになる。そして、専門性に基づく話者しか言えない事柄である。
けれど、実際にはもっと長いインタビューの中から、この部分を取り出し、わざわざ目立つように置いているに違いない。それ以前に、特定の話者だけをセレクトし、どの雑誌でも無かった組み合わせ方を、誰かがしている。
クレジットに明確なように、今回は聞き手と文章のまとめと特集担当者が同一人物である。あぁ、ここに建築史家でありライターである彼の主張が現れているのだな。(悪くいえば)公正なフリをして誘導しようとしているのだな。そう推察するリテラシーは、それほど高度なものではないと思う。

以上は実際に特集を読まれた方なら、誰でも気づかれることだろう。
《AでないBは、Aに等しい》。そんな文章がblogになっている不思議を、どう理解すべきか?
まず思い浮かぶのは、次の2つの可能性である。

1 相手の言ったことを意図的に小さく要約して論破したように見せる力の誇示
2 単なる読解力不足

しかし、当然ながら、これらは否定される。
難波先生は私も何度か謦咳に接する機会を持ったが、その都度に私の思考をさらに遠くへと運んでいただける深い理解と真摯さを備えた建築家であり、東京大学教授である。
相手を小さなサンドバッグにしてスパーリングを公開する必要はないし、読解力に疑問符が付くこともありえない。
1も2も成り立たないことは、火を見るよりも明らかだ。

となると、どう解釈すべきか・・・・ん~、明日まで考えて(ひっぱって)みよう。

翌日の記事へ続く
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