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『ヒューマニズムの建築』表紙

雄鶏(おんどり)社と言えば、手芸図書出版ではなくて、建築の人間なら、浜口隆一の『ヒューマニズムの建築―日本近代建築の反省と展望』だろう。
1947年12月に刊行され、批評家・浜口隆一の名を高くした同書の発行元が、雄鶏社。この1冊によって、その社名は戦後建築史に刻まれている。とはいえ、僕はニュースで知るまで「ゆうけい」社と読んでいたが…。

手芸図書出版 株式会社雄鶏社 自己破産を申請 - 帝国データバンク(4月20日)
http://www.tdb.co.jp/tosan/syosai/3004.html

1945年10月の創業だというから、『ヒューマニズムの建築』のヒットは、会社が軌道に乗るのに大きく貢献したに違いない。当時はマルクス主義系の本なども出していたが、建築の本はこの1冊くらい。浜口隆一とはどうやって出会ったのだろうか?

浜口隆一とは、こんな人というのは以下に。
だいぶ以前に『日本大百科全書:ニッポニカ』のために書いた文章だが、最近、無料公開していいですかという許諾が来て、書いたことを思い出した。


■浜口隆一(1916-1995)
 建築評論家。東京生まれ。1938年(昭和13)に東京帝国大学工学部建築学科卒業。同期に丹下健三、大江宏がおり、一級上の立原道造、生田勉(1912-80)らとも親交を持った。大学院に籍を置きながら、前川國男建築設計事務所に入所。41年に、後に日本の女性建築家の草分けとして知られることになる、濱田ミホと結婚する。
 44年、雑誌『新建築』に連載された「日本国民建築様式の問題」によって、文筆家としてのデビューを飾る。浜口は、西洋の建築が物質的なもの、構築的なものとして把握されてきたのに対し、日本では行為の側面から、空間的に建築をとらえてきたとして、彼我の建築概念の「伝統」の相違を論じる。その上で、過去の物質的な形態を模倣した「日本国民建築様式」は、むしろ西洋的なもの、明治以後のものであり、真に伝統を基調にするものではないと批判。日泰文化会館設計競技(1943)に提出された前川國男と丹下健三の案こそが「行為的」・「空間的」な日本建築の伝統に根差すのだと主張した。同論は、同時代の建築に新たな価値を与え、また、自明とされてきた「建築」概念が、西欧からの移植であることを露{あらわ}にした。画期的な建築批評として高く評価される。
 終戦後、初めての著作『ヒューマニズムの建築』(1947)を執筆。人類の歴史はヒューマニズム(人間中心主義)の拡大であるという観点から、戦前期までの近代日本の建築の歩みを正道からの逸脱と断じ、機能主義にもとづいた「近代建築」を「ヒューマニズムの建築」と呼んで、その史的必然性を説いた。明快な内容と平易な表現によって、戦後の建築界に大きな影響を与え、「近代建築」の解釈をめぐって、活発な議論が戦わされた。
 47年(昭和22)から東京大学第二工学部講師、翌48年、助教授。同時に、建築ジャーナリズムの旗手として、旺盛な執筆活動を展開する。第二次世界大戦後の建築生産の復興とともに、近代建築の理論的考察から、個別の建築評や海外動向の紹介へと対象の幅をひろげていった。57年に東京大学助教授を辞任。以後の10年間が執筆の最盛期であり、毎月のように複数の雑誌に記事が掲載された。平易な表現によって同時代の建築潮流を紹介し、それに歴史的な意味づけを与える才能の一端は、唯一のまとまった建築評論集である『現代建築の断面』(1967)に見ることができる。
 1950年代なかばから、建築を越えたデザイン諸分野の連帯を志向し、58年にはデザイナーの渡辺力{りき}(1911-)、柳宗理{むねみち}(1915-)、松村勝男(1923-91)とグッドデザイン・コミッティ(のちの日本デザイン・コミッティ)を結成。『デザイン・ポリシー』(共著、1964)など、デザイン論も著した。65年に設立されたサイン・デザイン協会の顧問を務め、『日本サイン・デザイン年鑑』誌上で、サイン環境の考察を行なった。67年から77年にかけては、日本大学理工学部建築学科の教授として「建築ジャーナリズム研究室」を開設した。
 1980年代以降の関心は、サイン学の再検討と、地域主義の問題にあった。89年に日本サイン学会を発足させ、初代会長に就任した。89(平成1)年には静岡県掛川市に移住し、地域に根差した多彩な活動を展開。「新しい機能主義」を説く『ヒューマニズムの建築・再論』(1994)は、こうした取りくみを総合するものとして構想された。(倉方俊輔)
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