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2009.01.30
「アーキテクチャと思考の場所」の感想などを

※関連記事として、磯崎新「カザルスホール」と都市 を書きました(2009.02.06追記)
1月28日に東京工業大学で公開シンポジウム「アーキテクチャと思考の場所」があった。開始20分前に着くと、600人収容の講堂はすでに満席。
この豪華メンバーなのだから無理はない。
司会が東浩紀、登壇者が磯崎新、浅田彰、宮台真司(思想系の内容なので今日は「さん」は無し)、それに若手として、昨年の単著『ゼロ年代の想像力


入口でもらった資料を開けると、「LIVE ROUND ABOUT JOURNAL」のチラシも挟み込まれていた。宣伝は着実に行われているようだ。
そういえば、主宰者の一人である藤村龍至の名も今回のシンポジウムの中で登場していた。東浩紀は次のように言った(メモ書きをもとにしているので発言通りではない)。
「決定するときに、作者と市場以外に、すべてのログを取るという第3の方法があるのではないか。なんでそう思ったかというと、藤村龍至さんに話を伺うことがあって、建築を設計していく時の生成プロセスを全部残すことでクライアントとのコミュニケーションをつくっていく。藤村さんは気づいていないけれど、これはネット的なやり方だと」
ただ、反論めいた話になってしまうが、この東浩紀の「超線形設計プロセス」の理解は違うのではないか。東浩紀のまとめはやはり的確で、聞いていてすごい - 浅田彰ほどではないにしても - と思ったのだが、2つだけおかしさに気づいた点があって、一つは宇野常寛のプレゼンの後のまとめ。もう一つはここだった。
だって、設計を依頼された建築家がクライアントとのコミュニケーションをつくっていくのは当然であって、「超線形設計プロセス」のそうした側面は副産物ないしは方便である。ちょうど、磯崎新にマイクが渡った時に彼が「富士見カントリークラブハウス」について「私はゴルフが分からないから『?』の平面形にしたんです」と言うと、聴衆が分かった気になってしまうのと同じようなものだ。
ログをとって説明可能にする、というのはたいしたことではない。繰り返し考えることで、建築的に使える環境的要素を見出すというのが本当のところで、その点でたいして建築というものは変わらないわけだ。

さて、シンポジウム全体の流れはというと、東による趣旨説明の後、濱野と宇野がプレゼンを行い、磯崎・浅田・宮台がそれに応じる形でディスカッションが始まり、予定された3時間が来て「切断」された。
全体の感想としては、登壇者の応答関係が成立していないシンポジウムだった。暗示的な瞬き合いのようなものはあるにせよ、明示的にはまったくと言っていいくらいに無かった。
ただ、それは決して悪いことではない。各登壇者の姿勢のショーケースとして機能していた。その意味で『思想地図』的。1500円(というのは本の値段で、このシンポジウムは同書と東京工業大学世界文明センターの宣伝なので無料)で、どこからでも読めてお得なのだった。
もう1つ全体の感想を挙げるとしたら、“東+宇野+濱野” と “磯崎+浅田+宮台” とは、相互に違う世界について語っていた。ほとんど梅田望夫の『ウェブ進化論
もちろん、“磯崎+浅田+宮台”がネット世界について知らないわけではないのだが、どちらを真の《現在》とみるかが別々なのだ。別のいい方をすれば、制限されていないもの(ネット)と制限されているもの(リアル)の間にどの程度の交通、相互参照関係が成り立つか。“磯崎+浅田+宮台”はそれを「弱」とし、“東+宇野+濱野”は「強」とみなす。これはコンピュータに接した世代云々だけでなく、年齢、つまり自己が社会的に保証されているかどうかにも起因するだろう。
先ほど「切断」と記したのは、濱野智史のプレゼンが磯崎新の「プロセス・プランニング論」(『空間へ
そこから濱野は「いかに暴走しないような設計を行うのか、それを現実の世界に適用していくかを考えたい」と述べた。そのとき「建築」と「社会設計」と「情報環境」が関連する必要があるのだとも。
明日の「LIVE ROUND ABOUT JOURNAL」(INAXギャラリー、11:00-20:00)で、その先が垣間見えるのかもしれない。
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