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2009.01.15
川島甲士氏が逝去、「津山文化センター」の原点

建築家の川島甲士氏が2009年1月13日にお亡くなりになった。享年83。
川島甲士氏は1925(大正14)年生まれ。内田祥哉氏、故・篠原一男氏、故・増沢洵氏などと同年の生まれだ。
1949年に早稲田大学理工学部建築学科を卒業後、清水建設設計部を経て逓信省(後・郵政省)営繕部設計課に勤務。この時代に担当した建築に、1956年の日本建築学会賞を受賞した羽田国際空港郵便局などがある。1954年からは明治大学工学部二部で設計製図の講師も務めている。
1957年に郵政省建築部設計課を退職し、芝浦工業大学建築科の助教授となる。同年には川島建築設計研究所を設立。以来、旺盛な設計活動を行う。
BCS賞を受賞した「西都原考古資料館」(1968)、ガラスの吹き抜けホールを中心に、風景と対峙した「宮崎県営国民宿舎・青島」(1970)。しかし、これらはすでに共に取り壊されてしまった。
代表作となった「津山文化センター」(1965)は、日本建築の斗きょうの形態と構造システムを融合させた迫力の高度成長期建築。DOCOMOMO Japanの選定建築でもある。penkouさんによるこちらの記事は、学生時代に川島氏に習った思い出も交えた、他に無い紹介記事だ。
川島氏の葬儀は、自身の設計した「松源寺」(1969)で行われた。東京都台東区松が谷にあり、コンクリートの大屋根が特徴的。
同じ台東区には、やはり川島氏が設計を手がけた「妙経寺」(1959)が建つ(所在地は記事末尾)。独立後、最初期の作品にあたる。
これも鉄筋コンクリート造による新たな寺院の形を追い求めている。本堂の屋根はギザギザ形の折板構造。当時、流行したスタイルだ。例えば、海老原一郎が設計した「憲政記念館」(1960)のように。

「妙経寺」は、脇に立つ鐘楼にも注目である。その形は大胆。屋根は中国建築以上に反り返り、チューブのような形状になっている。仕上げはコンクリート打ち放しで、屋根にはペンキが塗られている。屋根を支える脚には孔が空いている。そこに鐘突き棒が通される。脚の断面は有機的な曲線。丹下健三の広島平和会館(1955)のピロティを思わせる。
小さいながら「津山文化センター」に至る川島氏らしさの原点が、ここにある。

ご冥福をお祈り致します。
*「建築浴MAP」(googleマップ)で所在地を見る
倉方様
川島甲士先生が亡くなられたことを記載してくださり、僕の先生対する想いも改めてよみがえりました。
津山文化センターをDOCOMOMOに選定し、先生にお会いして学生時代のことなど語り合いたかったのですが、とうとうそれが果たせず残念でもあり申し訳なかったと、やはりそういうことが悔いとして残ります。
僕のブログの紹介もしてくださってありがとうございます。津山文化センターは本当に素晴らしい建築です。使い続けてもらいたいものですが!
川島甲士先生が亡くなられたことを記載してくださり、僕の先生対する想いも改めてよみがえりました。
津山文化センターをDOCOMOMOに選定し、先生にお会いして学生時代のことなど語り合いたかったのですが、とうとうそれが果たせず残念でもあり申し訳なかったと、やはりそういうことが悔いとして残ります。
僕のブログの紹介もしてくださってありがとうございます。津山文化センターは本当に素晴らしい建築です。使い続けてもらいたいものですが!
倉方俊輔
ありがとうございます。そういって頂けると嬉しいです。
今回、神戸大学の梅宮弘光さんのご教示で訃報に接して、改めてこの世代の「若さ」を思いました。
「津山文化センター」は、川島甲士先生が40歳の時に完成したことになるのですね。その頃の話を聞くことができたら、得るものも大きかっただろうにと私も考えさせられます。実際に川島先生に学んだpenkouさんの思いは、なおのことと思います。
そんな ― 個人的にも時代的にも ― 若い息吹の生んだ「津山文化センター」が再び注目されたのは、DOCOMOMO等の近年の活動によるところが少なくありません。そんな見直しの動きを、さらに拡げていけたらと。
今回、神戸大学の梅宮弘光さんのご教示で訃報に接して、改めてこの世代の「若さ」を思いました。
「津山文化センター」は、川島甲士先生が40歳の時に完成したことになるのですね。その頃の話を聞くことができたら、得るものも大きかっただろうにと私も考えさせられます。実際に川島先生に学んだpenkouさんの思いは、なおのことと思います。
そんな ― 個人的にも時代的にも ― 若い息吹の生んだ「津山文化センター」が再び注目されたのは、DOCOMOMO等の近年の活動によるところが少なくありません。そんな見直しの動きを、さらに拡げていけたらと。
5年程前に津山在住の知人の車で移動中に、偶然目に飛び込んで来たこの建物の衝撃は、今も新鮮に思い出されます。その時は内部に入ることはかないませんでしたが、外観の強烈なデザインに圧倒されながら、熱に浮かされたように興奮しながら写真を撮ったものでした。また設計者がついこのあいだまでご存命だったとは驚きでした。今年は「松源寺」と「妙経寺」を訪ねてみようと思います。
年賀状を昔の住所で出したため返って来てしまいました。年始のご挨拶もできず失礼いたしました。
年賀状を昔の住所で出したため返って来てしまいました。年始のご挨拶もできず失礼いたしました。
倉方俊輔
津山といえば、吉阪隆正さんの母方の祖である箕作家のふるさとでもあります。吉阪さんの母の祖父は箕作秋坪。蘭学者だった箕作阮甫の次女と結婚して、養子になります。阮甫は津山藩医の家に生まれて蘭学を学び、一八三五年には日本最初の医学雑誌を出版。語学・地理・歴史・工学諸分野など多岐にわたる著作を通じて、洋学の発展に寄与した人物です。
その箕作家・宇田川家など津山藩の洋学者たちの業績を記念した「津山洋学資料館」の新館が今年竣工します。設計は象設計集団! 師の祖の資料館とあって、富田玲子さんが喜んでいました。訪れてみたいものです。
今年もよろしくお願いいたします。
その箕作家・宇田川家など津山藩の洋学者たちの業績を記念した「津山洋学資料館」の新館が今年竣工します。設計は象設計集団! 師の祖の資料館とあって、富田玲子さんが喜んでいました。訪れてみたいものです。
今年もよろしくお願いいたします。
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