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気が向いたテーマを綴る、時系列無視の「思い出しblog」。
(10月22日の記事で書いた)米沢の翌日は山形に行ったのだった。
県立図書館の地下にこもって、日が暮れるまで、伊東忠太の資料調査。
主に実家に宛てた書簡が、ここにたっぷり所蔵されている。

高校生時代の書簡は、記録に現れない空白期を埋める数少ない資料だ。
大学院時代の文章からは、「法隆寺建築論」の調査過程が分かる。
1902年から3年3か月かけて世界をめぐった
アジア・欧米留学の間にも、実家にたくさんの手紙を出している。
シルクロードに行くはずだった旅程の地図が見つかったのも収穫だった。

留学中、最後のハガキは1905年6月、ニューヨークから出したもの。
「当市は欧州の大都とはまた格別で実に金の力でドンナことでもヤッて居ります。
 何れ御目にかヽりましてゆる/\お話致しましやう《中略》
 いよ/\帰朝も近づきまして何となく嬉しく思ひますが、
 又欧米に名残も惜しまれます。
   六月二日            ニユーヨルク市にて
                          忠太」
なお、この年の暮から、永井荷風は横浜正金銀行のニューヨーク支店に勤める。

帰国後、アメリカの建築について、忠太は具体的に語らない。
しかし、勘の良い彼のことである。
新しい何物かを、アメリカに直観したのは確かだろう。
《建築》という19世紀の枠組みに取って代わろうとする、得体のしれない《建設》。
20世紀の建築がそれとの闘いで彩られることに、いち早く気づきながら、
彼自身は、それと正面きって格闘することは無かった。
でも、教育者としては別だ。
東京帝国大学の教壇に立つと、建設中のシンガー・ビルのことを、
さっそく「建築史」の講義で語っている。
1908年に完成した187mのシンガー・ビルは、その後の摩天楼競争に火をつける。

朝から快晴で、風も爽やか。
そんな陽気に背を向けても、惜しいと思わなかったほどに、
忠太づけの2日間だった。
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