fc2ブログ
東京日仏学院01 アテネフランセ01
本日は早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校の見学会。晴れ男を自認しているので、天候がなんとか持ったこんな日は嬉しい。
行き先は、東京日仏学院アテネ・フランセだった。集合場所の飯田橋で共通点を3つ挙げたはずだったので、それを思い出して書こうとしたら、次の7項目にふくらんでしまった。
(1) ル・コルビュジエの「弟子」の設計
東京日仏学院はル・コルビュジエのアトリエで1931年から36年までいた坂倉準三(1901-69)、アテネ・フランセは同じく1950-52年にアトリエで働いた吉阪隆正(1917-80)が設計を手がけた。より正確に言えば、前者は「坂倉建築研究所」、後者は「吉阪研究室」(U研究室)の設計だ。

(2) 日仏交流に深く関連
東京日仏学院はフランス政府の公式機関で、語学学習や文化・情報のセンターとなっている。1924年設立の日仏会館を前身に、1950年にオープンした。
アテネ・フランセは1913年に創立されたフランス語・ラテン語などの学校の老舗で、4階のアテネ・フランセ文化センターでの映画上映は有名。

東京日仏学院02

(3) 傾斜地を生かした構成
東京日仏学院は外堀に向かって下る逢坂の途中、アテネ・フランセは水道橋から皀角(さいかち)坂を上がったところにある。
どちらも竣工当時の写真を見ると、そびえ立っているかのよう。今は周囲が大きく変化したが、それでも東京日仏学院の3階のバルコニー、アテネ・フランセの地下のカフェを訪れると、ちょっとびっくりするような眺望に出会える。

東京日仏学院05

(4) 当初の設計者により増築され、今も活用されている
ともに現在の姿は一度で生まれたものでない。
東京日仏学院は1951年に南部分(現在のエントランスより南)で開館し、1961年に坂倉により増築。1994年に、後にみかんぐみの創設メンバーとなるマニュエル・タルディッツ氏と加茂紀和子氏によってリノベーションされた。
アテネ・フランセは、さらに複雑。1962年の開館時には地上3階、地下1階だったが、その後、1980年の8期工事までに、天にそびえる塔、鉄骨構造の4階、入口左手のステンレスの外壁などを追加した。形態の非統一性を増やすかのように増築をしていくところが「吉阪的」だと思う。1965年から1989年まで8期にわたった大学セミナー・ハウス(東京・八王子)の、いわば市街地版である。

アテネフランセ02

(5) 色彩が豊か
東京日仏学院は、その後のリノベーションもあって、赤や青の原色が鮮明。壁面の基調である白と共に、モダンでヒューマンなトリコロールカラーだ。
アテネ・フランセの外壁に用いられたピンクや紫といった色は、当時の日本人を驚かせた。それはフランス人教師にとっても同じだった。吉阪に理由を尋ねると、今後道路が舗装されて、ますます街が灰色になるから、これくらいで良いのだ。それにコンクリートに色彩があるのは、中南米では珍しくないと答えたという。

東京日仏学院03

(6) 階段が見どころ
東京日仏学院の中でも、あっと驚かされるのが階段塔だ。角を落とした三角形状の平面形の中に、二重らせんの階段が仕組まれている。1951年に完成した当時、3階はフランス人校長の住居として用いられており、階段は独立した動線の役目を果たしていた。トップライトの光が落ちる外側の階段が主人用で、暗い内側が女中用。会津若松の栄螺堂(旧正宗寺三匝堂)のような、フランスのシャンポール城のような、ル・コルビュジエのサヴォア邸のような、モダンなのか守旧的なのか分からないデザインに、坂倉準三の融通無碍な美質を感じる。
アテネ・フランセのメイン階段は当初から広くとられている。増築を繰り返しても、動線が破綻しないのはこのためだろう。天にそびえる塔の中も階段。上部は当初、階段ギャラリーとして考えられていたらしい。とっておきの階段は図書館の奥の書庫室にある。らせん階段に握り手のような手すりが面白い。

アテネフランセ03

(7) それで、坂倉準三と吉阪隆正は何をしたのか?
坂倉建築研究所の初期からのメンバーである辰野清隆氏は、神奈川県立近代美術館(1951)の後、坂倉が図面を描くのを見かけたことはないと回想している(松隈洋「神奈川県立近代美術館/モダニズムの降臨」『坂倉準三建築研究所 アソシエイツのかたち』新建築社、1999、p.164)。
駒田知彦氏によれば次の通りだ。
「坂倉さんから図面を与えられたというような記憶は全然ありません。ただ口頭でイメージを表現されたことはあります。」(『素顔の大建築家たち』建築資料研究社、2001、p.182)

アテネ・フランセの場合、設計を担当したのは岡村昇氏であり、吉阪隆正は基本設計の段階で国立ツクマン大学の招聘教授として、アルゼンチンに旅立ってしまった。特徴的な外壁の色にしても、リモートコントロールの仕業だったようだ。当時を知る鈴木恂氏は、以前にこんな話をしてくれた。
「アテネ・フランセの、あの何ともいえない色。サーモンピンクから、茜色ね。これなんかはアルゼンチンに行った時に、アンデスに夕日が入るあの色がいい、という手紙が僕らに来て。でも、夕日の色なんか分からないよね(笑)。しかし、茜色かなんかを入れて向こうに送ったら、大体そんなようなとこだってことで、紫から茜から、その段階のいくつかをあそこの中に入れて、壁までそれにしちゃった」(鈴木恂談話、2004.10.4)

それでも吉阪隆正の「作品」には、やはり吉阪隆正という個人が関わっていなければ出せない特徴があって、拙書『吉阪隆正とル・コルビュジエ』では、それを論じたつもりだ。
坂倉準三の場合はどうか。彼の特質が何であり、それが結果的に何を可能にしたのか。坂倉準三が、モダニズム建築家の残された高峰であることは容易に気づく。戦前からの図面資料が多く保管されており、関係者の証言も少なくなく、事務所は坂倉建築研究所として今も現役だ。ただ、それだけに坂倉準三への登頂は、モダニズムの建築家の中でも最後になりそうな気がする。

東京日仏学院04

Secret

TrackBackURL
→http://kntkyk.blog24.fc2.com/tb.php/119-0016ae1e