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日本銀行本店

本日は10時半に集合して、日本銀行本店の見学会。といっても、昨日から始まった「open! architecture ― 建築のまち・東京を開放する」の一環としての「建築解放区」ではなく、NHK文化センターの柏教室の講座である。
今日も、昨日と同じような快晴。同じように神田で降りて、山梨中央銀行東京支店の前を通る。今日の回には、NHKの「おはよう日本」の取材が入ると話していた。ブラウン管に出る機会を逸して、少し残念な気もする。ブラウン管とは言わないな、今は。
そんなことを考えているうちに、三井本館を過ぎて、日本銀行本店前に到着。辰野金吾の努力や、長野宇平治の増築の巧さなどを解説。
明治29(1896)年完成の日本銀行本店が起工したのは、明治23(1890)年。この年に長野宇平治は東京帝国大学造家学科に入学した。長野宇平治と同じ年(1867年)生まれに、伊東忠太という建築家・建築史家がいる。日本銀行本店が起工した時、伊東は同大学の2年生だった。辰野金吾が示した完成模型を見て、こんな感想を漏らしている。
「中々に宏壮なるものなるが、別に審美上の価値はなき様に見受けたり」。
もちろん、教授を目の前にそんなことを言うほど、伊東は無鉄砲な坊っちゃんではないので、これは日記の中の言葉である。

日本銀行ツアーに参加するのは、しばらくぶり。地下金庫を見せてくれたり、新館の営業部に入らせてくれたりと、コースが変わっていた。1973年竣工の松田平田坂本設計事務所による新館は、天井全面の照明や床の模様がレトロな趣で、良かった。

このツアーでは歴代総裁の肖像画も見どころだ。旧館の廊下に掲げられている(写真が撮れないので、実際に行った時にご覧ください)。
4代目は岩崎彌之助。在任は明治29(1896)年から明治31(1898)だから、日本銀行本店が竣工した直後、ジョサイア・コンドルの設計で湯島に残る旧岩崎邸が竣工(1896年)した頃に職を勤めていたのか…。
14代目の池田成彬は、三井財閥で重きを成した銀行家。彼も1867年生まれで、山形県米沢に生まれている。同じ米沢の出身である伊東忠太とは、大学に入る前の外国語学校時代に「重遠会」という名の会を結成して、親交を持っていた。会友には後に曾禰達蔵のパートナーとして、戦前を代表する建築事務所「曾禰中條建築事務所」を率いた建築家・中條精一郎もいたのだった。
16代目の渋沢敬三の肖像画は見るたびに格好いい。彼の肖像画だけ室外で、タッチも違う。焼け野原を背景に、ポケットに手を入れて、ぶらり立っている。それがかえって敗戦という未曾有の事態と、渋沢家の歴史の重みをじわりと感じさせる。
24代目の前川春雄は、建築家・前川國男の実弟。肖像画を見ても、よく似ている。トップにしか立ちようのないような風貌に思える。中曽根首相の時代に「前川レポート」という言葉を聞いたことはあったが、その「前川」が前川國男の姓と結びつくと知ったのはずっと後のこと。前川國男が没した年に作成された「前川レポート」が後の市場開放や金融自由化に先鞭をつけたとしたら、それが前川國男の旧日本相互銀行本店を取り壊した・・・そう考えるのは、さすがに短絡というものだろう。

大江宏

12時の見学会終了後にいったん帰宅して、15時から早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校で大江宏の講義を行う。
いろいろな講義を担当しているが、その時の自分の研究関心がもっとも直接に反映しているのは、同校の授業だろう。とりわけ今回は、日本近代建築における大きな存在と考え、再評価の必要を感じている大江宏であるだけに熱がこもる。そのせいで、時間配分を誤り、結論部が急ぎ足になってしまった。
スピリットと完成度は、別のものである。普及化したほうがうまくいく。それは例えば、(挑戦的なディテールだったので初期は雨漏りした)日本相互銀行本店のようなモダニズム建築にも言えることで・・・と、玉と石を勘違いしながら自分を慰める。
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