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いきいきまちや01

金沢に来ている。昨晩はCAAKで吉阪隆正についてレクチャー。30人くらいの方がいらしていただろうか。質問も盛んで、CAAKがこうした交流の場になっているということを実感。司会の林野紀子さん、議論していただいた鷲田めるろさんをはじめ皆様に感謝します。

いきいきまちや03 いきいきまちや02

その前に、野田直希さんにアトリエワンの「いきいきまちや」を案内していただいた。改修する前に外観は見ていたが、少ない予算にもかかわらず、ここまで町屋がその質を回復することに感服。中に入ると、細くて軽いもので身体が包まれているような感じだ。外の通りや緑を気持ちよく変換してとり入れてくれる。それに調度品が味をつけ、アートがスパイスとなる。

北國銀行武蔵が辻支店01

その後、吉村寿博さんと合流。今月13日にリニューアルオープンしたばかりの村野藤吾の「北國銀行武蔵が辻支店」を案内していただく。
3Fのアートセンターでは山本基展が行なわれていて、天井の高い空間が使いこなされていた。
何といっても場所がいい。近江市場の隣である。これだけ町場に、この規模のアートスペースがあるということは、そうないのではないか。運営する金沢アートグミの方とお話をする。高橋治希さんにいただいた「金沢アートマップ」は、まちや建物、喫茶店までプロットされたちょっと変わったアートマップで、眺めていると、回遊性のある豊かな場所だと改めて思うのだ。
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阿知須町庁舎01

鳥を思わせる形だが、これは「阿知須合同納骨塔」(1967)を手がけたのと同じ藤原・山下設計事務所が手がけた「阿知須町庁舎」(現・山口市阿知須総合庁舎、1969)。
上部は展望台で、設計者の偏愛がうかがえる。

阿知須町庁舎02

こういうのを見ると、有名なロバート・ヴェンチューリの『ラスベガス』の挿図を思い出すわけだが、「あひる」ではないようだ。町名の由来になった「あじがも」がモチーフだという。
でも、どちらも英語だと「duck」か。
星薬科大学01

アントニン・レーモンドの設計で1924年に完成した「星商業学校(現・星薬科大学)」は、当時なんとも「SF的」な総合校舎だったに違いない。何せ一つの建物の中に収まるのは、階段教室、大講堂、図書館から運動場まで・・・。しかも、そこには一つの階段もない。すべてが一続きの床でつながっている。

星薬科大学04

魔法の鍵はスロープだ。正面の吹き抜けにスロープが巡る。背面には階段室の代わりに2つのスロープ室があって、見た目のアクセントにもなっている。大講堂も床がゆるやかに傾斜している。

星薬科大学03 星薬科大学02

スロープは階の違いや建物内外の境といった常識を取り払う。正面の階段室の視線が、入口の門とつながる。ここにあるのは外に対して隔てるような威厳ではない、機能に基づいた新しい建築の存在感。

星薬科大学05

当時これだけの施設をつくらせた星一がすごい。使い続けている星薬科大学も偉い。さまざまな機能を内包し、敷地の中心に位置を占める校舎であるだけに、通常は建て替えられやすそうなものなのに。
創設者のレジェンドが宿る小さな大学ならではの、偉業だと思う。
伊東忠太フィールドノート
倉方俊輔「挑戦の建築家」(『INAX REPORT』No.168)より

渡邉研司さんの勉強会「MARS会」に呼ばれ、東海大学で伊東忠太の話。
前回「MARS会」で話をしたのは2006年だった。この時のことは、渡邉さんの『論文はデザインだ!』の冒頭に載っている。その日の「吉阪隆正とル・コルビュジエ」の話に来ていなかった「S君」(同書参照)も、今では大学院2年生。渡邉研の中心を担っている。

今期は「デザイン・サーヴェイ」がテーマということだったので、「伊東忠太とデザイン・サーヴェイ」と題して、伊東忠太が1902年~05年のアジア・欧米留学(世界旅行)で目論んだものは何だったのか。どんな風に旅し、何をどう観察し、デザインに結びつけたのかを話す。

小沢朝江さんにも来ていただき、鋭い質問をいただいたので有り難かった。当時におけるアメリカの意味や「デザイン」の持つ含意について考えさせられた。
伊東忠太の観察は単に、デザインの表層を集めるものではなく、その奥の原理を求めるものだった。それが今日は分かって興味深かったが、だとしたら「デザイン・サーヴェイ」という形容はそれに相応しいのだろうか、というのが小沢さんの質問の一つだった。
「デザイン」という言葉は、最終的に作られた形態を指すと同時に、それを作り出す精神を指す。3年間にわたる伊東忠太のサーヴェイは、後者を明らかにしようという意気込みに突き動かされていて、それが1908年末の「建築進化論」に最終的につながる。

もちろん、伊東忠太の頃には「デザイン・サーヴェイ」という言葉は無かったので、まずこれを「デザイン・サーヴェイ」だと見てみたら何が分かるか、という仮説的作業である。
では「デザイン・サーヴェイ」とは何だったのか? 何が行われ、そこで「デザイン」という概念に何が託されていたのかと問うと、まだまだ分かっていない。

渡邊さんたちと昨年、「よみがえるデザイン・サーヴェイ」という冊子を編んだ。
法政大学・宮脇壇ゼミのサーヴェイについて中山繁信さん(工学院大学教授)、芝浦工業大学の相田ゼミに関して相田武文さん(芝浦工業大学名誉教授)、明治大学の神代雄一郎研究室について松本勝邦さん(明治大学講師)にインタビューを行い、有力な証言を得た。

「よみがえるデザイン・サーヴェイ」展&シンポジウム
http://kntkyk.blog24.fc2.com/blog-entry-154.html

「デザイン・サーヴェイ」とは何だったのか?
さらに広く、振り返る必要があるだろう。今年の課題だ。そんなことで、渡邉さんと意気投合。
『ヒューマニズムの建築』表紙

雄鶏(おんどり)社と言えば、手芸図書出版ではなくて、建築の人間なら、浜口隆一の『ヒューマニズムの建築―日本近代建築の反省と展望』だろう。
1947年12月に刊行され、批評家・浜口隆一の名を高くした同書の発行元が、雄鶏社。この1冊によって、その社名は戦後建築史に刻まれている。とはいえ、僕はニュースで知るまで「ゆうけい」社と読んでいたが…。

手芸図書出版 株式会社雄鶏社 自己破産を申請 - 帝国データバンク(4月20日)
http://www.tdb.co.jp/tosan/syosai/3004.html

1945年10月の創業だというから、『ヒューマニズムの建築』のヒットは、会社が軌道に乗るのに大きく貢献したに違いない。当時はマルクス主義系の本なども出していたが、建築の本はこの1冊くらい。浜口隆一とはどうやって出会ったのだろうか?

浜口隆一とは、こんな人というのは以下に。
だいぶ以前に『日本大百科全書:ニッポニカ』のために書いた文章だが、最近、無料公開していいですかという許諾が来て、書いたことを思い出した。
... 続きを読む


関谷和則さんより献本御礼。
「ゼネコン設計部」の本と考えると変わった本だ。
まずタイトルからして変。『凸と凹と』である。
副題にしても「竹中工務店設計部のなかみ」。
これで、いわゆるスーパーゼネコンの一翼を担う竹中工務店の本であることは分かるのだが、それにしたって「なかみ」だから、言葉が穏やかだ。
ゼネコンさんの本というと、トップの言葉がだーん、シャープな写真がどーん。そんな印象を持っておられる方がいるとしたら、僕もその一人だ。
でも、これは違う。シャープな ― 特にこの会社だから尚更である ― 建物の裏にあるざらつきを見せようとしている。
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嵐山カントリークラブハウス02

ケンプラッツ「ドコノモン100選」の第17回は、1961年に完成した天野太郎の「嵐山カントリークラブハウス」。知っている人は知っているだろうこの建築、行ってみると印象は当時の雑誌写真のままで、感動ものだった。
しかも、動き回っての面白さは、誌面での予想をはるかに上回る。ようやく天野太郎という建築家の真価が分かった気がした。

ライトの弟子がつくった光の空間:嵐山カントリークラブハウス - ケンプラッツ
http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/building/column/20090414/531976/

ゴルフ場のクラブハウスといえば、建築家の名品が少なくない。
戦前の代表例が、アントニン・レーモンド。いくつものクラブハウスを手がけていて、中でも「東京ゴルフクラブ」(1932)は戦前モダニズムの傑作だ(ったらしい)― 蛇足だが、朝霞という町名もこのゴルフクラブから来ていて、現在の駒場公園からこの地に移転した時にクラブの名誉総裁である朝香宮鳩彦王にちなんで名付けられた。

嵐山カントリークラブハウス03

他にも、吉村順三、磯崎新、隈研吾などのクラブハウスが思い浮かぶ。
イメージが大事な奢侈品だからというのもあるだろうが、それだけだと商売用の建築はみなそう言える。でも、クラブハウスは普通の商業建築とも、また少し違うのだろう。
ゴルフ場は「カントリークラブ」と呼ばれるように「クラブ」の名が付いている。会員の集いの場だから、新規顧客をそれほど積極的に開拓する必要は無い。だから建築に、流れゆくものより、留まるものを提供できる契機が与えられる。
単なるスポーツ施設ではない憩いをいかに生みだし、限られたメンバーが共有する「家」をつくるか。それが問われる。流行遅れだから、非経済的だから、といったスクラップアンドビルドの荒海に投げ出されるのとは違う。開放的でないことの良さだ。

嵐山カントリークラブハウス01

フランク・ロイド・ライトのもとから戻って与えられたこの仕事は、天野太郎という建築家の性向に適したものだった。それが分かるのは、今も嵐山カントリークラブの品格の一部として、大事に使われているからだ。
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