
取材で終日、前川ツアー。
「日経アーキテクチュア」の編集の方と一緒に、
神奈川県立図書館・音楽堂(1954)
神奈川県青少年センター(1962)
神奈川県婦人会館(1965)
神奈川県青少年会館(1966)
世田谷区民会館・区庁舎(1959、1960)
世田谷区役所第一庁舎(1960)
世田谷区役所第二庁舎(1969)
世田谷区立郷土資料館(1964)
埼玉会館(1966)
埼玉県立博物館(1971)
と、10の建築を浴びるように見る。
これだけ一度にまわるのは初めてだ。
他の建築家で同様のことができるかというと、それも難しい。
前川國男さんが、コンペを契機にしながら、
自治体から特命で仕事を受けていたことを改めて思い知る。
今だったら癒着だとなじられるのかもしれない。
写真は1971年に完成した「埼玉県立博物館」。
ここから、前川國男の「後期」が本格的に始まる。
建築界の流行とは関係なく、
一見すると穏やかな、自然に溶け込むような建築を、
長い時間に耐えうる「打ち込みタイル」などを使ってつくっていく。
でも、前川國男は決して、モダニズムから降りたわけではないのだろう。
自然の、なりゆきの世界に戻ってしまったのではないと思う。
写真に撮ったその瞬間から新しさが蒸発し始めてしまうものなんて、
新しさの度合いで言えば、その量は決して大きなものではない。
揺るぎなく建てられた壁に、木々の影が映り込む。
その様子を眺めているうち、
《新しい時だけ新しいのではなく、いつまでも新しくあり続けるもの》
を、前川國男は探求し続けた。そんな確信が胸に宿ってくる。
写真は早川村のホームページからの転載。

山梨県の西部に位置する早川町は、日本で最も人口が少ない「町」である。
人口は1,566人(2004年)。高度成長期には1万人以上の住民がいたが、
林業やダム建設などの衰退で減ってしまった。
そんな早川村だが、住民アンケートの結果を尊重して、2002年、
「平成の大合併」に加わらずに、独自路線でやっていくことを決める。
この「湯島の湯」のことは、象設計集団に在籍し、
現在、かめ設計室として活動している羽渕雅己さんから教えていただいた。
(羽渕さんは早稲田大学後藤春彦研究室の個人助手でもある。
吉阪隆正さんの弟子の弟子にあたる後藤春彦さんは、
各地で実践的にまちづくりに関わり続けていて、早川町もその一つ)
羽渕さんと知りあえたのは、2004年に開催された「吉阪隆正展」のとき。
数少ない「若手」(学生以上、先生以下)として駆けずり回っていたある晩に、
山梨県の温泉を手がけていることを聞いた。
少ない予算ながら、丹精込めてつくった温泉が、昨年の8月に完成。
しかし、山の中とあって、実際に訪問する機会をのがし、先々週に初めて訪れた。
実際、遠かった…。
だから、足を伸ばす価値が、十分にある。
まず、木々の中をカーブしていく道中が心地よい。
そして、たどりついた「湯島の湯」。
湯船は露天のみで、日替わりの男湯と女湯に、
木と石でできた二つづつの湯船がある。
すぐ脇は、早川の清流。
湯に浸かれば、向こうの山まで、木々の緑が一望できる。
施設で特徴的なのは、源泉から洗い場、湯船と続く木の樋。
洗い場では、ここから桶で湯をすくって、身体にかける。
「塩素無添加」、「非加熱」、「無加水」の源泉が、
樋を流れているうちに適度に冷まされて、湯船を満たす。
ボイラーがあったり、金属の蛇口をひねったりというのではなく、
きわめて簡単な仕組みが目に見えるので、リラックスできるのだろう。
建築は、そんな温泉の原点を可能にするために設計されている。
温泉に本当もウソもないのだけれど、「ほんとうの温泉だ」と身体も評する。
日本の人口はもう増えない。
なんて、静かに、劇的なことなのだろうか。
ダウンサイジング時代の日本の、豊かな使い方は何か。
急ぐことではない。
温泉につかりながら、本来、ゆっくり考えるべきことだ。
9時5時で、再履修の学生の監督当番である。
本を読んで、結果として生まれた自分の考えを3000字ほどでまとめてください。
自分しか言えないことを、誰が読んでも分かるように書くことを目指してね。
その考えが建築やインテリアにまったく無関係でなければ、選ぶ本はなんでもいいです。
という内容の「意見文」の課題が未提出なので、それをやってもらう。
熱心にメモをとっていたので、どんな本でどんな方針で書こうと思っているかを話してもらったのだが、どうも様子が変だ。
本を見せてもらうと、新書・・・お、なかなか良いのでは。
カバーをとると、アラン・チャン ・・・ですか…。
現れ出た本に1分程で目を通すと、唖然。
羞恥心は絶対的なものではなくて、共同体の中で維持するための総体的なものであって、昔の「セケン」から、多様化した現在の「狭いセケン」へと変わったから、「ジベタリアン」(すでに懐かしい)が生まれた、という読み捨てのコラムくらいの内容で、一冊を書き上げてしまえるのがスゴイ。
むしろ、学者さんの「羞恥心はどこへ消えた?」という社会学的考察のサンプルでは?
しかし、今気づいたのだけど、「唖然」って、使ってOKなのだろうか?
口当たりのいいキャッチコピーは、カモを狙っているのかと、疑ってかかったほうがいい。
奥付や参考文献の書き方に目を光らせるといろんな情報が読みとれる。
などと、都会に娘をやる母のごとく言い聞かせて
街に送り出すと、しばらくして、ちゃんとした本を選んで帰ってきた。
羊の皮の狼が多い今、向学心に燃えた若者は大変だ。
Amazonで本をごっそり買って読んでいる。
ほとんどは建築と直接、関係のないもので、
たとえば1年ほど前に出た新書
三井誠『人類進化の700万年 ― 書き換えられる「ヒトの起源」』
(講談社現代新書、2005)は、刺激的だった。
文章が分かりやすいのが、美点の第一。
そして、現時点でわからないことを「わからない」とはっきり書いているのが、美点の第二。
だから、読み手は、自分たちが人類の来歴が書き変わりつつある現場にいるのだ
という実感を労なくして得ることができる。
著者は京都大学理学部を卒業した後、読売新聞に入社し、科学関係の記事を担当している。
「サイエンス・ライター」の必要性を教えてくれる本だ。
人類の進化は、4つの数字がキーになっているらしい。
以下に忘備録代わりのまとめを。
《700万年前》人類がアフリカで誕生(ここからホモ・サピエンスに続く流れがチンパンジーから枝分かれ)
「直立二足歩行」と「犬歯の縮小」という特徴を獲得。ただし、その理由については諸説あり、分かっていない。
《250万年前》脳の大型化の流れが始まる(ここからがホモ族)
「道具の使用」=石を砕いて石器をつくり、石器を使って動物の骨から肉をはぎとって食べるようになる。
→ やがて(180万年前に)アフリカを出て、比較的短期間(20万年)でアジアにまで進出
→ 食物が高エネルギー化したことで、脳の大型化がさらに進む
→ 火の使用(80万年前?)、狩猟の開始(40万年以上前)
《20万年前》現生人類がアフリカで誕生(ここからがホモ・サピエンス)
知力に優れたホモ・サピエンスが生まれ、再びアフリカを出て地球中に拡散。
その他の種(ネアンデルタール人、ジャワ原人、北京原人など)は、現代に何の遺伝子も残さず絶滅。
《7万5000年前》象徴を扱い始める
この頃の刻み目が入った土片、穴の空いた貝殻などが出土。
ここから人間の身体的な能力は現代人と変わりない。違いは象徴による知識の蓄積だけ。
→ ヨーロッパで3〜4万年前の彫像、壁画、楽器などが発掘。
→ 言語の使用、農業・牧畜の開始、都市文明の誕生…
仕事とは無関係な、興味の針の振れに任せての読書は楽しい。
これが無かったら、「趣味」を仕事になんてできないし、
仕事がなければ、こわくてこんなことはやってられない。

アメリカやヨーロッパに行ったとき、印象的だったのは、
建築関連の展覧会が、時には一つのまちでいくつも開催されていることで、
切り口がよく考えられているし、客層も幅広い。
建築というものの多面的な面白さが生かされていて、うらやましかった。
「あそこの美術館が建築の展覧会を準備しようと動いているらしい。
数年前に話を持ちかけた時には、けんもほろろだったのに」、
と、昨年話題になった建築展の開催に奔走した方が、苦笑して言った。
日本の状況も良くなりつつある、と期待を込めて書いてみる。
写真は2003年の春、ワシントンにあるAIA(アメリカ建築家協会)の
オクタゴンミュージアムで開かれていた展覧会。
「自由の女神」と、その台座を設計した建築家に光をあてていた。
同じ時期、別の美術館では、フランク・ロイド・ライトの
さまざまな建築の窓枠だけを集めた展覧会が行われていて、
窓枠がときに日本の障子に見えたり、モンドリアンの絵画のようだったり、
古代文明を思い起こさせたりしながら、
やはり、一人の作家の想像力の幅を再確認させられる。
部分がかえって建築の本質をえぐり出す。その手際には感心しきり。

昨日の大熊喜英展もそうだが、日本人建築家の展覧会があいつぐ。
今年12月から来年1月にかけては、日本建築学会建築博物館で、
山田守(1894-1966)の展覧会
「建築家 山田守展」(仮称)が開かれることになった。
山田守資料が建築博物館に寄贈されたことを受けたもので、
代表作である東京中央電信局(1925)、鶴見邸(1931)、
東京逓信病院(1937)、日本武道館(1964)、京都タワー(1964)
東海大学湘南キャンパスなどの145図面、写真、模型が展示の中心。
本格的なカタログの出版、シンポジウムの開催も予定されている。
屈託のない、サニーサイド・モダニズムの代表選手、
「日本のニーマイヤー」の再評価も近いか?
写真は1960年代にキャンパス整備を担当した、東海大学湘南キャンパス。
言ってみれば「和製ブラジリア」。
流線型校舎が、希望の灯台のように、闇夜を照らす。
小さいけれど、密度の濃い展覧会。
未公開の資料を取りそろえて、知られざる(と言って構わないだろう)
建築家・大熊喜英の建築力を現在に問う。
大熊喜英は、国会議事をはじめ、多くの官庁舎の設計に関わった
明治〜昭和戦前の建築界の大物・大熊喜邦(1877-1952)の息子。
前川國男や白井晟一と同年(1905年)の生まれで、
早稲田大学建築学科卒業後、大成建設に入社。
1950年代から民家をモダンに解釈した作風で、住宅作家として脚光を浴びた。
こんなパースが建築雑誌に載ったら、引き込まれてしまうのも無理もない。

U氏邸(計画) 外観着彩パース(ギャルリー・タイセイHPから転載)
高校生の時から、今和次郎の民家調査に参加していた喜英。
民家を捉える「目線」が良いのである。

香川県塩飽群島にある住宅の内部(ギャルリー・タイセイHPから転載)
民家風なのだけど、古めかしくない。
精巧を極めた和風モダンではなくて、もっとざっくりした感覚。
形のものまねではなくて、単純で発見的な、もののつかい方を、
民家(ヴァナキュラー)に学んだのだろう。
アマチュアであることのプロだった、ル・コルビュジエのように…。
理屈抜きに訴える力が現代的で、
それにしても、うっかりすると、こうした方々を抜きに、
モダニズム建築史なるものを、既定のカテゴリーの当てはめで、
超特急で語ってしまいかねないから、恐いものだと思った。
「大熊喜英の建築 ― 和のまなざし」展は、
10月6日まで開催(8月14〜18日と土日祝日は休館)。
ギャルリー・タイセイなので無料であるし、ぜひ新宿センタービルへ。



