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もう半分/まだ半分

(5月29日からの続き)
吉阪隆正さんという人は、調べれば調べるほど、
思想と行動が一致して、一貫している。
関わった建物はもちろんのこと、
言葉やスケッチも示唆に満ちていて魅力的なのである。
「まだ半分残っているぞ/もう半分しかない」というイラストがある。
学生運動が宴たけなわだった1969年に
早稲田大学の理工学部長に就任した(≒押し付けられた)吉阪が
学生に示した「告示」の一つ。以下のような文章と一緒だった。

「私はいつも、同じ状況でもこれに対する心の持ち方で異なった情況を呈すること、
 次の絵のようであると見て来ました。そして私はこのニコニコした男の説に従い
 たいと思います。〈中略〉私は、欠陥の指摘ではなく、それを如何に克服できる
 かの提案を論議していく態度でのぞみたいと思います」

悪い面より良い面を、論評ではなく提案を、ひねくれよりも素直さを。
そんな姿勢が、新たな意味がいまなお汲み出せるような建築を生み、
独創的な人物を世に送り出すことに貢献した。

なんで、こんなことをぐだぐだ書いているのかというと、
今の大学セミナー・ハウスに、その建築/環境としての価値が
残存しているという確信が、ただちには持てないからであって、
現在のセミナーに、たとえ価値の「半分」でも残っていれば、
「もう」とか「まだ」とか言えるのだが、
2~3割だったとしたら、四捨五入して、もうゼロなのだから、
すべて無くなってしまっても、それが世の流れで仕方ないなんていう
無常観に針が振れてしまう衝動に「待て」をしている。

大学セミナー・ハウスの宿泊ユニット(1965)は、
1群と2群の一部をのぞいて、2006年3月に撤去された。
丘陵の起伏に手を加えないで、木造プレファブのユニットを群として配置し、
自然と人工が互いを高め合うような新たな「場」を生み出すことで
設立者である飯田宗一郎の抱いた「セミナー・ハウス」の理念に、
建築/環境としてのかたちを与えるという成果は、姿を消した。

旧3群・4群 旧6群
左:3群・4群があったあたり
右:6群があったあたり越しに新館「さくら館」(2006年5月30日撮影)

頼みの綱は「コンクリートの床面は残す」という説明だった。
しかし、昨日、DOCOMOMO Japanの要望書を出しに行ったら、
3~7群のコンクリートの床面は無くなっていた。
きれいさっぱりと。
掘り返された土が、斜面に拡がっている。
木立を風が通り抜けるのが、気持ちいい。
ここに、ユニット群がどうやって配置されていただろう。
すでに思い出すのが難しい。
やがて、裸になった大地には木々が芽吹き、美しい眺めに戻るだろう。
それはそれで、良いことかもしれない。
失ったことにすら気づかない、動物であるところの人間にしてみれば。

それにしても、ここに至った状況を耳にすると、へなへなしてしまう。
手作業での撤去を申し入れ
→ 金がかかるからムリ!
→ ショベルカーでガシガシ、ガシガシ
 (それなりに気をつけて作業したので、単純な撤去より手間がかかる)
→ コンクリートの床面が割れたり傾いだり
→ このままじゃ危ないし、やっぱり全部壊す
→ 追加工事を発注。もう一回業者を呼ぶ
→ コンクリートの杭を引っこ抜き、床面を取り去る
(以上は筆者が得た情報での個人的な認識なので、誤りだったら教えてください)

熟慮の上の取り壊しなら納得のしようもあるけれど、
DOCOMOMO20選にも選ばれた建物が、場当たり的と言っていい成り行きで、
地上から姿を消してしまうというのは、なんともはや・・・。
建築や景観の保存・活用に向けて運動されている方々は、
こんな「へなへな」感とたたかってきた(いる)のだと気づいたり。

今回、人類の英知が生み出したものを引き継ぐことができず、
歴史の平準化に貢献してしまった。
私を含め、研究者や愛好者や門下生たちが、見殺しにしたようにみえる。
今回のことが、ヴァンダリズム(vandalism)だとしても、
野蛮人というくらいだから、罪をなじっても仕方がない。
放っておくと、それが中長期的視野に立ったメンテナンスを施す予算が「無い」ために
傷みが激しい教師館(1968)や遠来荘(1975年に民家を移築)やセミナー第1群、
あるいは「リネン交換が大変な」長期セミナー館(1970)に向かうことは、
火を見るよりも明らかで、だったら、やはり動くべきだろう。
悪い面より良い面をみて、論評ではなく提案を、
ひねくれるのではなく、素直であることを恐れずに・・・。
(続く)
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まずは3枚の写真。
ユニット解体01 ユニット解体02 ユニット解体03

3月18日に大学セミナー・ハウスを訪れた時、
1965年の開館時につくられた宿泊ユニットの大半は、すでに姿を消していた。
「施設の老朽化が著しく、現代の学生達に敬遠される傾向が顕著になりつつあ」る
(大学セミナー・ハウス公式HP)ことから新たに建設された
「さくら館」の床面積と引き換えに
1群と、2群の数棟を残して壊されることが決まった。
訪問時は、まだ2群が手つかずで、作業小屋に使う7群もそのままだったが、
驚いたのは、その壊され方だった。

木々の緑の中に散乱するユニットの壁や屋根の残がい。
合間には、ベッドのマットレスや洗面器具のかけらも見える。
まるで瓦礫の山。
こうした光景を目の当たりにしても、
「まるで現代美術のインスタレーションみたい」
と、まだ美を見つけてしまう能天気さに呆れながら、
しかし、それも故無きことでないと思い直す。
すでに新棟建設が始まり、ユニット解体も既定事実だと知った時の
ショックから立ち直らせたのは、
分散型の個々のユニットが建っていたコンクリートの床面を
そのままに残すというセミナー・ハウス側の説明だった。

やがて、この瓦礫の下から、土地に寄り添いながら積層する
コンクリートの床面が現れるだろう。
ユニットを喪うことで、自然の中に建設する意志はいっそう生鮮になる。
建設から40年ぶりに立ち上がる風景が、
新たな「可能性の場」に転生するに違いない。

この時期の訪問は、磯達雄さんの「昭和モダン建築巡礼」の取材に同行してのことで、
フリックスタジオの大家健史さん、ぽむ企画の平塚桂さん、
mosakiの大西正紀さん・田中元子さん、
ライフアンドシェルターの松野勉さんほかと一泊して、語り合った。
コンクリートの床面に関して、磯さんもこう書いている。
「上屋はなくなっても、斜面地に水平の床を並べて自然と人工の弁証法を
試みた吉阪の思想は、よりピュアな形で現れてくるのかもしれない」
(『日経アーキテクチュア』4/24)

それにしても気になるのは、ショベルカーをバキバキ言わせながら、
全部一緒くたに破壊するという方法である
(訪問した時は、破壊作業の真っ最中だった)。
懐かしささえ漂う、乱暴なやり方・・・。
コンクリートの床面は、果たして大丈夫なんだろうか?
(続く)
連休中なので朝寝していたら、電話が鳴って、
誰だろうと思ったら、建築家の丸山欣也(アトリエ・モビル代表)さんだった。
フランスに行った先日、ル・コルビュジエ財団に寄って、
吉阪隆正さん関連の手紙を出してもらったら、これがなかなか面白い。
資料のコピーを一式、送りたいので、新しい住所を教えてほしいとのことだった。

中には、国立西洋美術館を建設している最中に、
ル・コルビュジエが吉阪隆正(や坂倉準三や前川國男)に送った文書や、
留学前の1947年に、吉阪隆正がル・コルビュジエに
出した手紙もあるというのだから、気分が高ぶらないわけがない
(理由はやや専門的になるので、『吉阪隆正の迷宮』の第3夜や
『吉阪隆正とル・コルビュジエ』第2章を参照してください)。
感謝を告げて受話器を置いた時には、すっかり目が覚めていた。


明くる日に封書が届いた。
表書きから、すでに丸山欣也ワールド。
書かれた住所の文字と配置が、丸山さんの情感あふれるスケッチと
同じタッチであることに感心してしまう。

添書きの文章にもじ~んとしながら資料を開く。結構な量である。
丹下健三がル・コルビュジエに宛てた手紙が目についた。
日付は1959年6月20日。
「私の尊敬するル・コルビュジエ様
  日本語でお手紙を差上げることをお許し下さい」
という書き出しで、便せん3枚に日本語で書かれている
フランス語訳は、進来廉さんにお願いしたらしい。
ル・コルビュジエへの敬愛の情がていねいに、
やや形式張って綴られていて、人となりが伺えるようだ。

「私がパリーに発つ前々日に貴方の東京の美術館の開館式がございました。
私たち建築家は感激しております。」
国立西洋美術館の開館は1959年。
当時、丹下健三45歳、ル・コルビュジエ71歳。
上野に残る美術館は、じきに50年を迎える。


便せんの左上に目をやると、事務所名と住所が印刷してある。
「KENZO TANGE」の文字がひときわ大きい。
力強くて、シャープで、まるで古さを感じさせない。
勝因は、5文字・5文字の名前で、バランスがいいことか?
そこいくと「YOSHIZAKA」や「MAEKAWA」は冗長だ。
「ITO」や「ANDO」は良いけど、なんて思いながら、
さっきから感じていた既視感の原因が、
アパレル・ブランドの「KENZO」のロゴに似ていることだったのに気づく。
均整のとれた文字配列が、同様のフォントを誘うらしい。

あとはフランス語なので、これから読解することにしよう。
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