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建築史家・建築家の藤森照信さん(東京大学教授)が、
今年9~11月に開催される第10回ヴェネチア・ビエンナーレ建築展の
日本館コミッショナーに就任されたとのこと。

http://www.jpf.go.jp/venezia-biennale/arc/j/10/

独特の「藤森建築」が、海を越えて紹介されることになる。
出品者は他に、赤瀬川原平、南伸坊、松田哲夫、林丈二、
故・杉浦日向子の「路上観察」スクール。
「野蛮ギャルド建築」「路上観察学会」とを併せた展示は、
いままで無かっただけに、嬉しいことだし、楽しみ。

建築家としてのデビュー作である「神長官守矢史料館」(1991)、
国会議事堂のような屋根にタンポポを植えた「自邸(タンポポハウス)」(1995)、
靴を脱いで上がる漆喰塗りの美術館「秋野不矩美術館」(1998)、
細川護煕氏の工房「不東庵」と茶室「一夜亭」(2003)、
焼いた杉板を表面に張った養老孟司氏の別荘「箱根昆虫館」(2005)など、
藤森さんの建築は、眼を引くし、親しみやすい。
「吉田流」や「村野流」のように、個人名でつい呼んでしまうような
個性がある。なかなかできることではない。
でも、それだけではないのだろう。
建築をつくるという行為自体が、
建築家の職能や技術、モダニズムや歴史との関係など、
幾重にも、ものごとを考えさせる。
おまけに、建築史家としての卓越した業績と、分離しながら
共鳴しているから、批評されるだけの奥深さが生まれている。

例えば、建築家の「職能」に関して言えば、
建築が本来、個人と個人、一対一のつながりでこの世に生を受けるということ、
だから、99%以上の大衆が「NO」と言っても、「パトロン」さえOKすれば
建築は建つし、結果的にそれが芸術になるという「強み」があるという歴史的事実を、
これほど強く思い起こさせてくれる人物は、近年いない。
それが出世作の「看板建築」研究や、
都市と文献を扱ってですら《人》を描き出す『明治の東京計画』や、
さまざまな奇想の建築への着目に通じるわけで…。

ツバキ城

昨年、伊豆大島にある「ツバキ城」を訪れた。
赤瀬川原平に学んだ施主は、「縄文建築団」の一員として、
赤瀬川邸(ニラハウス)などの施工に早くから参加。
藤森さんに設計を依頼した建物が、2000年に完成した。
鉄筋コンクリートの外面は、天然の芝で覆われている。
壁は鉄平石と張り合わせて「なまこ壁」のように。
屋根のてっぺんには椿が植わっていて、冬には紅い花が咲くという。
中に入ると、しっくい塗りの壁が眩しい。
中央にある大きな栗の柱が、天井まで続いている。
壁も柱も、手仕上げならではの凹凸がある。
窓からの光があたって、ピクチャレスクだし、落ち着く。
「建築家」の肩ひじ張った都市再生計画!なんかより、
どうということのない民家をリノベーションした、
「まったりカフェ」的なセンスといえそうだ。
主人が壁の芝を刈ったり、水をまいたりしながら、家への愛着を語る様子が
少し前にNHKの番組でも紹介されたから、ご覧になった方も多いかもしれない。
施主にとっては手間がかかる。それがいい、という建築なのだ。

ここは大島でただ一軒の造り酒屋、「谷口酒造」の販売所である。
他では手に入らない焼酎が並んでいる。
試飲させてもらって、迷った末に「三年寝いも太郎」を購入。
家でゆっくり、なんて思っていたのだが、
帰りの東海汽船のデッキは、風が通って気持ちが良くて、
「ここで焼酎なんて、最高でしょう」という心の声に誘われて、一杯、二杯・・・。
澄んでいて、深みがある。いもの旨味だけが熟成変化したような旨さで、飽きが来ない。
結局、ほとんど空にしてしまった。

わざわざやってきたのに、「ツバキ城」だけ写真に収めて、
スッと出てしまう人も少なくないという。もったいないなあ。


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2006.01.22 丘の上の雪
「丘」は生きている。
鋼の馬が往来を行き、鉄道が地中を貫くようになった今でも、
敷地のアップダウンは、その眺望や登坂の労力で人の心に働きかけて、
地図の裏に潜んだ、越えられない壁を生み出す。

NHK文化センター青山校の見学会で松濤を訪れた。
江戸時代、ここには紀州徳川藩の下屋敷があった。
明治初め、土地を佐賀藩鍋島家が購入して、大規模な茶園を経営。
茶の湯の湧く音を松風と潮騒にたとえ、「松濤園」の名を冠した。
大正期以降、茶園は住宅地に変わるが、その名と、高台の地の利は、
江戸の名残りを今に伝える、というわけである。

渋谷東急本店の脇から、坂を上がっていく。
先ほどまでの雑踏が嘘みたいに、景色が変わる。
通りを歩く人はまばら。
整備された通りに時折、外国製高級車が行き交うだけ。
両脇には、頂部だけがのぞく洋館やら、土木のような擁壁やら、
冷たい壁の大理石の輝きやら。
得体の知れない凄みが感じられて、いい。
きっと「黒幕」 ― TVドラマ「けものみち」の平幹二朗のような ― は、
こんなところに棲んでいるのだな、
なんて、庶民の想像力は全開だ。
もと来た方角に足を進めると、がたがたとレベル(土地の)が低くなっていき、
あっという間に陋巷に帰還。
わずかな合間で、旅した気分が味わえる。

見学会の主目的は、白井晟一の設計で1980年に完成した松濤美術館
中央の外部吹抜けに特徴がある。
吹抜けの平面は楕円形で、見下げた底には水面が拡がり、上は空に抜ける。
地下2階のホールから、地下1階と地上1階の展示室、地上2階のサロンまで続いて、
来館者に強く意識される。
この「空虚な楕円筒」が、松濤美術館の最大の展示物と言ってもいい。

松濤美術館内部

吹抜けを前にしたとき、8年ぶりの大雪に見舞われたことが、
「あいにく」なんかでなく、「さいわい」だったと気づいた。
雪で拡散した光の粒子が、内側の吹抜けから、外側の館内へと、
明るさのグラデーションをつくっている。
一つ一つの雪の粉を凝視しようとすると、眼が追いつかない。
それをあきらめると、雪は再び、緩やかな流れに戻る。
雪の不思議さを、「空虚な楕円筒」が照らし出す。
まるで自然現象を観察する、試験管みたいだ。

松濤美術館吹き抜け

午後になってますます勢いを増した雪は、
風にあおられて横へ、上方へと踊り始める。
幼い頃に遊んだスノーグローブが、記憶の底からよみがえる。
内向きの窓にうつるのは、人の内面なのかもしれない。
建築という装置は、さまざまな環境によって働き出す。

「空虚な楕円筒」を再び反転させて、20倍に拡大すれば、六本木ヒルズである。
少し前までのテレビでは下から空へ、そびえる摩天楼を映し出していたが、
最近は空撮で、ヒルズを俯瞰した映像が目に付く。
見えざる丘の上から、地上の陋巷へ。
ドラマのような転落を、待ちかまえているのか。
でも、空調が効いた今の建物だから、
社長室のガラス窓は開かないと思う。
はじめまして、坂牛卓さん
文章と作品では存じておりますが、直接に1月3日の日記にコメントをいただき、
びっくりするとともに、嬉しく思います。
インターネットの恩恵を実感する出来事です。

さきほど、建築家・難波和彦さんの日記「青本往来記」をのぞいたところ、
やはり、難波さんも『言葉と建築』を正月休みに読まれていて、
(さすが、建築界きっての理論系読書家です)
内容と翻訳に、惜しみない称賛を贈られてましたね。

「あちこちで目から鱗が落ちるような指摘に出会った。
 …翻訳の良さにも感心させられた
 …本書は間違いなく僕の必読書に加わるだろう」
(2006年1月5日の「青本往来記」からの引用:
 こうやってまとめると、ペーパーバックの裏にある推薦文みたいです)

この言葉に、まったく同感です。
言葉・思想を扱うという、難易度の高い、デリケートな問題が、
翻訳であることを感じさせずに伝わってくる。
特殊な術語や、奇妙な造語、あるいはカタカナ表記に逃げていない。
例えば、形(フォーム)の章。
形態(フィギュア、ゲシュタルト)、形状(シェイプ)、形式(フォルム)
という訳し分け方一つとっても見事です。
言葉(日本語)が、大事にされています。
複数の訳者にもかかわらず、一貫性の欠如もありません。
入念な読み合わせをされたこと、監訳者が実質的な作業にきちんと
立ち入られたことが、一目瞭然です。

ふだん翻訳書を読むときに、翻訳者のことは意識しないのですが
(よっぽどまずい場合は別です)、
翻訳だということが意識に上らないほどに巧いと、
意識するものだなと気づかされました。

こうした優れた本を、坂牛さんをはじめとした皆さまが、
静かな情熱をもって翻訳されたことは、
私が言うまでもなく、日本の建築文化への多大な貢献だと思います。
後から来た小人が、巨人の肩の上に乗ることができます。
良書の刊行は、情熱と引き換えにしてしか割に合いません。
まさに献身です。だから、言いたいのです。
お疲れさまでした。そして、ありがとうございました。

※コメント欄にはリンク機能が無いので、記事にしました
正月休みに気を許し、邦訳が刊行されたばかりの
エイドリアン・フォースター『言葉と建築―語彙体系としてのモダニズム』
(坂牛卓+邊見浩久監訳、鹿島出版会)を読んでいる。

歴史学と美術史を学んだ後に、建築の研究に着手したロンドン大学教授の著作。
第1部では、言葉と建築の関係性を論じて、全体の見取り図を提供し、
第2部では「性格」という18世紀的な用語から、
冒頭で筆者が「モダニズム批評の5つのキーワード」と呼ぶ
「空間」「形態」「デザイン」「構造」「秩序」まで、
18の言葉の用法を歴史的に、批評的に説明する。

現代思想を通り抜けながらも、言葉と建築の関係について、
ニヒリスティック&ペダンチックに論じるのではなく(これはありがち)、
両者のポジティヴな相互作用を、
曲折しながらも論理立った話運びで、解きほぐしている。

単なる用語辞典ではない。
コーリン・ロウの批評は、どうして卓越なのか、
モダニズム批評に秘められたジェンダー区分と、その新たな可能性
動線(circulation:循環)という建築語法の不適切さと適切さ・・・
雑学にも使えそうな、刺激的なネタが詰まっている。

圧縮された論旨と的確なレトリックとで、冗長さが見あたらない。
訳文も巧い。
本書には時折「いかなる~もない」「たったひとつの~」といった言い回しが現れる。
さりげない一文の背後には、どれだけの作業量があるのか…。
言葉の背景と、それに触発された建築家の取組みを知ることは、
実作者の力にもなるに違いない。
読者はただ丁寧に文章を追っていきさえすれば良い。
その努力が裏切られることは無い。
こういう本が読みたかった。ありがとう!

内容に触発されて、脳裏にあった漠然とした思いが析出する。
それを追いかけて、1ページ毎に本から目を離してしまうのと、
つけっ放しのテレビの「芸能人格付けチェック」が面白いのとで、
なかなか読み進められないのだが・・・。

税込5,775円。
卓越した知性による数年、数十年の作業の成果が、
どんな人間もなし得る、たった1日の労働
(東京都の最低賃金=8時間で5712円)で手に入る。
本ほど安価なものは無いと、改めて思う。

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