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2005年はモダニズム建築の再検討のエポックとして、
記憶されるのではないだろうか?

前川國男建築展

今年はモダニズム建築家の回顧展が相次いだ。
「建築家 清家清展」(7~9月)、「吉村順三建築展」(11~12月)。
先日成果物がまとめられた「吉阪隆正展」(2004年12月)も、
これに入れてよいだろう。
どれも調査研究に基づいた本格的なもので、
これまで日本で乏しかった《建築家研究》の基礎になることが予想される。
同時に、一般の目を意識して「見せる」展示がそれぞれに工夫されていた。
テレビなどで採り上げられたこともあって、
さまざまな立場の方が会場に足を向けたことも特筆される。
欧米を訪れると、建築展がポピュラーに開催されていることに感心するけれど、
そうした機運になりつつあるのかもしれない。

これほどに展覧会が相次いだのは、偶然だ。
どれも数年前から準備が始まっていたし、企画の経緯もみな異なる。
ただ、1900~10年代生まれの建築家の業績が、
単純なレッテル張りを脱して、現在と歴史とに接続できる時期になったという
時代性な共通性はあるだろう。
丹下健三さん(3月22日)や清家清さん(4月9日)の逝去も、
その感をいっそう大きくする。

「前川國男建築展」が東京ステーションギャラリーで始まった。
前川國男(1905~86)は、作品と言葉とアーキテクトとしての矜持によって、
日本の「近代建築」の歩みをけん引した建築家。
東京帝国大学建築学科を卒業後、1928年から1930年まで、
パリのル・コルビュジエのアトリエで学び、帰国後、建築事務所を開設。
代表的な作品に、神奈川県立図書館・音楽堂(1954)、京都会館(1960)、
東京文化会館(1961)東京海上ビルディング(1974)などがある。
会場には、50年の経歴を物語る、精巧な模型、図面、写真、解説類が並ぶ。
ゆっくり見たつもりは無かったのが、気づいたら2時間も滞在していた。
質量、名実ともに「モダニズム建築年」の最後を飾るにふさわしい展覧会。
分かりやすくて、面白い。
建築が少しでも好きなあなたなら、これは必見である。

「建築展」という言葉の本義どおり、展示はあくまでも「建築」が中心だ。
人物にまつわる史料はほとんど出ていないし、解説も緻密で冷静である。
会場は、ほぼ年代順に、11のパートに分かれている。
目に留まらないような内部や背面まで精巧につくられた模型群と、
線の太さや文字の書き込みまで神経が注がれた建築図面、
竣工時と新撮影を交えて選び抜かれた建築写真を軸に、
建築とその背景にあるものを、誠実に伝えようという構成だ。
声高に叫ぶことも、珍奇に突出したものも無い。
しかし、なんと力に満ちた空間なのだろうか。
まとわりつくような陋習も、いたずらな難解さも無い。
人は物の背後に込められた労力を、直観するものなのだろう。
純粋な楽しさにあふれて、歩きまわるにつれて、
心身はくつろぎながらも、鋭敏に研ぎ澄まされていく。

前川國男の建築を思い起こさないわけにいかない。
「建築」というものに賭ける姿勢。
才能と膨大な時間を背後に隠した、良質のオーソドキシー。
確固として存在し(美術館を訪れるような類の)人間に力を与える空間。
前川建築と同じスピリットが、会場に流れている。

前川事務所出身の鬼頭梓さんは、吉阪隆正展の夜話で、こんな至言を語られた。
「前川さんが生涯目指したのは建築で、視点はいつも建築に向いていたという
 感じがする。建築を通して人間を見るというか。吉阪さんは逆だったような
 気がしますね。いつも主役は人間の方にある。」(『吉阪隆正の迷宮』p.156)
人間・前川國男は、会場の最後になって現れる。
10分間に編集された映像の中でも、ジャガーを運転する動画はぜひ見てほしい。
1959年の渡欧の時のもの。
以前、スチールで目にしたことはあったが、動く映像は初めてだった。
向こうからジャガーの姿が大きくなってくる
(撮影してくれと、立たせていたのだろう)
カメラの真横で止まると、ハンドルをにぎりながら、上機嫌でにんまり。
多くを語らず、思いつきに富み、工作好きで、意固地で、責任を引き受ける。
そんな建築を生んだ、前川さんの《男であり男の子》の部分が、
一瞬に現れたようでうれしかった。
男が100%男でなく、女が100%女でないとしたら、
自分の中の「母性」が刺激されたといえるかもしれない。
それにしても、「建築」の裏に「人間」を用意しておくとは、
展覧会の構成、憎いくらい巧みだ。

展覧会の構成について、さらに考える。
それは真剣に取り組むと、意識していなくても、
建築家そのものになってしまうのかもしれない。
「吉阪隆正展」の時には、会期中の2、3日にいっぺん、
全部で10回の「夜話」(座談会)を行なった。
「記憶から記録へ」ということが頭にあった。
今すべきことは、関係者のオーラル・ヒストリーを収集し、
歴史化のための材料を散逸させないことだと考えたのである。
ただ、いま前川國男展のカタログと『吉阪隆正の迷宮』を横に並べると、
つくづく思う。事態は、そんな自分の小理屈を越えたものだと。
みなで方針を決めた(結果だけでなく作る過程に意味がある)油土模型や、
インタビューも含めて、こうした「人間」中心の展覧会を、
吉阪さんが用意していたのだなと。

「前川國男建築展」の会場には、実行委員の一人であり、
事務局長として展示・カタログ・関連企画を中心的にとりまとめた
京都工芸繊維大学の松隈洋さんがいらした。
山名善之さんが新たにサインを確認したル・コルビュジエ・アトリエの図面、
吉村行雄さんが撮影された建築写真のことなど、
いつもながら朗らかな姿勢に魅かれて、いろいろとお話をお聞きする。
知識が豊富で、人脈を持ち、バランス感覚に優れた松隈さんがあって、
爽やかで強靱な前川展が実現したのだと思う。
巨匠であればあっただけ、まとめる仕事には「雑音」が付いてまわるもの。
税金だと思ってそれを負うことの大事さを感じて、会場を後にした。


「前川國男建築展」は、東京ステーションギャラリーで、2006年3月5日(日)まで。
(開館時間:[平日]10:00~19:00、[土日祝日]10:00~18:00
 休館日:12/26と1/9をのぞく月曜日、1/1~7、1/10)
弘前市立博物館(4/15~5/28)、新潟市美術館(6/17~8/16)にも巡回。
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日付が変わった。きょう12月17日は吉阪隆正さんの命日だ。
亡くなってから、ちょうど25年。人間の生命の一サイクルにあたる。

うちは建築とは無縁の家庭だった。
ただ1冊だけ、建築の本があった。
それが「建築文化」の1981年5月号で、「特集:吉阪隆正1917~1981」とある。
60ページの特集の中には、重村力さんによる総論、詳細な年表、
座談会(戸沼幸一さん、富田玲子さんら弟子の中に、
石山修武さんが入って、気炎を吐いている)、関係者14名のコメントが載る。
短い編集期間とは思えない充実した内容。
背景の熱気は、高らかな編集後記にも明らかだ。。
「この建築界で、たった一人の建築家の死が、これほどまでに重大な衝撃と
 痛恨を与えたことがかつてあっただろうか。この偉大な吉阪隆正と言う
 建築家の死は、単に係りのあった回りの者たちのみを悲しませただけ
 なのでは決してありえない。〈中略〉そして私たちは問われ続けるはずだ。
 『きみはYOSIZAKAを越えられるか』と。」

当時、この雑誌を開いたのか、記憶に無い。
でも、「建築」などというジャンルがあるとは思わなかった少年時代、
毛色の違う雑誌の存在を、異様に感じたことは覚えている。
一方、吉阪さん(U研)設計のアテネ・フランセは、異様に思わなかった。
教鞭を執っていた親に連れられて、よく遊んでいたからだ。
前面の壁はピンクや紫に塗られ、アルファベのレリーフが施されている。
薄暗い階段には、がっしりとした手すりがあって、
撫でるとしっかりとして、手に心地よかった。
幼い頃は、小さい世界である。世を知らないひよこのように、
世界にはこんなレリーフがある建築と、無い建築の二種類があると思っていた。
似た建物が他にないことに気づいたのは、ずっと後の話だ。
「建築文化」の特集号は、アテネ・フランセの校長から頂いたという。

さて、お知らせ。
『吉阪隆正の迷宮』(2004吉阪隆正展実行委員会編、TOTO出版)が、
今日あたりに本屋に並ぶ。昨年、建築博物館で開かれた展覧会の成果だ。



12月17日に行われた重村力さんの講演と
シンポジウム(伊東豊雄、五十嵐太郎、倉方俊輔、司会:内藤廣)、
倉方が会期中に担当した10回の夜話やインタビューの内容に
北田英治さん撮影の吉阪作品の写真や図表などを加えた、充実の344頁。
さまざまな方のご協力で、ようやく完成した。
量が膨大になって原稿整理や註釈作成に思いのほか時間を取られたけれど、
編集を担われた松井晴子さん、齊藤祐子さんは、それ以上に大変だったと思う。

展覧会からのこの1年が、新たなサイクルの火付け役になればと期待している。
気負わず、臆せず、それぞれに。
吉阪という松明は、もっと引き継いでいけるはずだもの。
大学セミナー・ハウス(東京都八王子市、吉阪隆正+U研究室設計)の
宿泊ユニットのほとんどを2006年3月までに取り壊すという計画が、
(財)大学セミナーハウス(理事長:中島嶺男、館長:荻上紘一)
によって進められています(以下、敬称略)。

大学セミナー・ハウス宿泊棟1 大学セミナー・ハウス宿泊棟2

大学セミナー・ハウスの開館から40年の年月が経ちました。
宿泊ユニットや大学セミナー・ハウス全体の、どこに、どんな価値があるか
(あるいは無いのか)、今後どうしたら良いのか、といったことに関しては、
さまざまな考え方ができます。できて当然だろうと思います。
また、セミナー・ハウスの運営主体は、(財)大学セミナーハウスであり、
財政面・運営面などさまざまな状況を考えた上での最終的な決定権が、
同財団にあることも論をまちません。
一方で開館以来、多くの人間が同館を利用してきたこと、
歴代の館長が、使い続けるという方針をとっていたこと(良いか悪いかは別として)、
建築的・施設的な側面から広く注目を集めてきたことは確かです。
宿泊ユニットのほとんどが近日中に取り壊されるという計画の詳細が、
いま、知れ渡っているとは言えません。
少なくとも、これを知らせることは大事だろうと思います。
もし、関心を持たれましたら、他の関心があるであろう方に、
できるだけ広くお伝えいただければ幸いです。

以下は、本日(2005年12月2日)三宅豊彦(U研究室)からお聞きした内容です。
内容の公開についてはご承諾いただいておりますが、意味のとり違いや、
公開そのものに対する責任は、倉方俊輔が負います。

●大学セミナー・ハウスの宿泊ユニット取り壊しについて
現在、(財)大学セミナー・ハウスは、2006年3月の竣工予定で、
新宿泊棟の建設工事を進めています。
敷地の容積率はすでに使いきっているため、新宿泊棟の完成に伴い、
現在100棟ある宿泊ユニットは、14棟を記念物として残し、
それ以外はすべて消滅します。
これによって開館以来の建築環境は大きく変化することになります。
また、プライバシーが守られないと不評の声が聞かれる長期研修館など、
他の建物についても同様の処理がなされることが予想されます。

宿泊ユニット撤去の背景として、第一に物理的な老朽化が挙げられます。
1965年の開館時に、木造プレファブの宿泊ユニットが100棟(合計定員200人)
つくられました。しかし、メンテナンス不足もあって、
そのうちのいくつかが使用できなくなっています。
加えて、設備の陳腐化もあります。
宿泊ユニットは、中に2つのベッドと机があるだけという簡素なつくりで、
木々の中に分散するように建っています。満足な冷暖房設備もありません。
いくつかのユニットは高い階段を上がる必要もあります。
したがって、現代の標準的な建築に比べると、アプローチが危険、
トイレに行くのに外に出ないといけない、夏暑く冬寒いなどの点が指摘されます。
こうした老朽化・陳腐化にともない、稼働率は低下しています。
現在、30%の稼働率で、冬季の宿泊ユニットの利用はきわめて少ないのが実情です。
当然のことながら、これは財政に悪影響を及ぼします。
これまで抜本的な対策は示されていなかったのですが、
現在の荻上紘一館長は、改革に意欲的で、
「このままでは大学セミナー・ハウスは倒産を待つという状態」、
「分散型の宿泊ユニット自体が現代に受け入れられない」という信念から、
新宿泊棟の建設を決断しました。

工事はすでに始まっています。2006年3月完成、4月からの稼働の予定です。
4人部屋を基本として130名を収容。バストイレ付で冷暖房が完備した
地上2階、地下1階の建物です。
設計にあたったのは、ダイワハウスの関連設計会社。施工は地元の業者です。
検討は2004年10月から始まりました。
U研究室に話があったのは2005年3月でした。
現在の宿泊ユニットおよび環境を残すような提案も行ったのですが、
コストなどの面で折り合いがつかず、現状のような方針となりました。
なお、宿泊ユニットを分散型で建て替えるとすると数億円かかるとのこと。
3年前から募金を始めましたが、全部で数千万円しか集まっていないと言います。

参考ホームページ:(財)大学セミナー・ハウス
 トップページから「研修宿泊棟新築工事進行状況」を見ることができます。

●大学セミナー・ハウス
東京都八王子市の多摩丘陵に位置する教育研修施設。協力会員校や賛助会員などの後援を受けて、財団法人大学セミナー・ハウスが運営を行なう。豊かな自然の中で学生と教員が寝食を共にして学び合い、全人的な接触を図る場として、飯田宗一郎が企画。吉阪隆正をはじめとするU研究室が設計を行ない、1965年に開館。89年までU研究室が一貫して設計に関わった。主な建物として、開館時からの本館、中央セミナー館、セミナー室、宿泊ユニット、67年の講堂、図書館、68年の教師館、70年の長期研修館、75年の大学院セミナー館、78年の国際セミナー館、吉阪の没後89年の開館20周年記念館などがある。建築家・吉阪隆正の代表作といえ、DoCoMoMo20選に選定されている。
遅ればせながら、横浜トリエンナーレを訪れた。
陽光と潮風 ― と、ときどき隣の倉庫からの排気ガスの臭い ― の中で、
ダニエル・ビュランの赤白の旗が美しい。
ビュラン・プロムナード チケット売り場

コンテナの出店や、体験系が主流の作風。
平日で若者中心だった客層もあって、
「学園祭」という印象 ― 良くも悪くも ― を受けた。
いくつかの作品は新鮮で、テンポラリーな倉庫という場に合っていた。
これが現代の社会的アートだと頭では分かっているつもり。
でも、違和感も否めない。
きっと僕は、オールド・ファションドなのだろう。

ともあれ、9か月という短い準備期間で開催にこぎ着けたのは、
川俣正さんのディレクションあってのことに違いない。
「アート・サーカス」― 「見る側と見せる側の根本的な垣根を取り払い、
またそこで行われる表現に遙かなるジャンプ(跳躍)を起こ」す(カタログより)―
という企図も正しく思う。
会場で、ポートレートを撮るカメラマンがポーズを指図する。
それを見て冷やかすスタッフに、笑って応える川俣さん。
なるほど、こうした真面目なちゃめっ気が、
数多のビッグ・プロジェクトを可能にするのだと実感した。

肝心の川俣さんへのインタビューは、横浜トリエンナーレの会場構成を担当した
若手建築家(ワークステーション+アトリエ・ワン+みかんぐみ+藤本壮介さん)
の話から、建築保存論、土木の可能性まで及ぶ。
「建築論をお話しいただきたい」という不躾な要請に、誠実に応えていただいた。

来年から『日経アーキテクチュア』(日経BP社)が「NEXT-A」という
ブック・イン・ブックを本格的にスタートさせる。
その2月か3月号に載る予定。
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