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週末はナイン・トゥ・ファイブで、「建築浴」三昧。
「民学の会」が主催する「東京・近代建築ツアー」の案内人として誘われ、
都内に残る明治~昭和の建築を、貸し切りバスで巡った。

国会議事堂

土曜の集合場所は国会議事堂。
前日からの雨が上がって、段々屋根の背後には、抜けるような青空。
普通に撮った写真が、何かの風刺に映るほど・・・。

「民学の会」に引き合わせてくれたのは、春井裕さんだ。
もし、藤森照信さんの著作集が編まれたら、
『東京路上博物誌』(鹿島出版会、1987)を「漫筆」の巻に収録してほしい。
建築の歴史と実作の両方で成功した人は、藤森さんの前に、伊東忠太しかいない。
生前にまとめられたた『伊東忠太著作集』の第6巻は、
「論叢、随想、漫筆」と銘打たれていた。
「建築史家」の鎧を脱ぎかけた文章に、本質がかいま見える。
『東京路上博物誌』が「SD」(1965年創刊の建築雑誌。2000年廃刊)
に連載された86~87年には藤森さんも、共著者の荒俣宏さんも、ほぼ40歳。
「路上観察学会」や「帝都物語」で、快進撃を始める前夜である。
丸の内一帯の動物(装飾)を採集し、東京の地下を探検したかと思えば、
「ミジメ店」突入と銘打って、椅子一つしかない美容院
―「正式には四つあったんだが、奥から二番目を除いて物置台に転身
(トラバーユ)してしまった」― のルポルタージュも。
建築を逸脱しかねない、広い視野。
時に悪乗り気味な文章に、才気がほとばしる。
そういえば、伊東忠太が一世一代の大理論「建築進化論」
をまとめたのも、同じ位の歳だった。
そんな本の構成を務めたのが、春井さんである。

春井さん、それにツアーの企画者である奥田敏夫さんをのぞいては、当日が初対面。
しかし、議事堂を巡り、看板建築を見て、「かんだやぶそば」で昼食の頃には、
打ち解けた気分に。参加者は、編集プロダクションなど出版関係の方が多かったが、
写真家、小学校の先生、内装工事の方などさまざまで、軽快ながらも奥深い会話。
一人で向き合う建築もいいけれど、大勢だとまた違った楽しさがある。

午後は次のようにまわる。
湯島聖堂 ― 伊東忠太の「設計」では無いですよ、という話。
ニコライ堂 ― 司祭さん(でいいのかな?)のご説明で「正教とは何か」がやや分かった。
国立近代美術館工芸館 ― アール・ヌーヴォー展開催中。武田五一の家具などあり。
聖路加国際病院礼拝堂― アールデコ調の照明やら、ハエや蚊のレリーフやら。
奥野ビル(旧銀座アパートメント)― 今は現代アートの巣窟である。
三信ビルディング ― 来年取り壊し。「写真撮影ご遠慮ください」の看板が。
明治生命館 ― 上に巨大な高層ビルが建つ。旧館の裏側が見られるようになったのはいい。
ほか、車窓から靖国神社高灯籠、歌舞伎座などを解説。

駆け巡ったというほうが適当な、強行軍。
それぞれの建物の意味が重なり合って、その狭間であれこれと考えられた。
最後は、もうじき上層の復元が始まる東京駅を訪問。
「古い建物だからぶっ壊せなどという、そんな分かりやすい『悪人』は今、いない。
 みな『記憶の継承』なんて、巧いことを言う。
 だから、80年代の「ノスタルジー」のあり方を越えて、
 素直に、利口でなくてはならないのだが・・・」
なんだか、自問自答のようになってしまった。
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『卒業設計で考えたこと。そしていま』が、彰国社から届く。
編者の五十嵐太郎さんに声をかけてもらい、建築家のインタビューに協力した。
『ル・コルビュジエのインド』から、建築文化シナジーとのご縁が続く。



中身は、初めに五十嵐さんの序文、
おしまいに五十嵐さんと本江正茂さんの対談があり、
あとは建築家10人へのインタビュー。
自身の卒業設計(修士設計・卒業論文の場合もある)の内容と考えていたこと、
その後にどうつながっているかを考察しつつ、学生にメッセージを投げかける。
五十嵐さんが、青木淳さん、阿部仁史さん、塚本由晴さん、山本理顕さん。
磯達雄さんが、佐藤光彦さん、西沢立衛さん、藤森照信さんを担当。
僕は、乾久美子さん、藤本壮介さん、古谷誠章さんにお話をうかがった。
同世代の藤本さん、乾さんとは初対面。
藤本さんの憎めないやんちゃさと、乾さんの女性らしい格好よさには、やられた。
古谷先生の真摯な「教育者」としての姿勢にも改めて感銘
― 「さん」で敬称を統一しようとしても、つい「先生」と付けてしまう。

企画のタイミングが功を奏し、配本4日目で重版が決まったという。
卒業設計に取り組む学生が勇気づけられたり、ヒントをもらったりというだけでなく、
立場に応じて、さまざまに読み解けそうだ。
自分としては、半-過去の自分を語ることを通じて、
それぞれの建築へのスタンスが浮き彫りになるのが面白かった。

考えてみたら、インタビュー仕事はこれが初めて。
でも、意外なほどに違和感がなかった。
吉阪隆正展のとき、短期間で20名にインタビューしたからだろう。
去年の今ごろは大変だったけれど、地力を付けていただいたことに、
ひたひたと感謝する毎日。
参加しているグループの研究費申請書づくり(あーめんどうくさい)のあいまに
インターネットをのぞいていたら、素敵なページに気づいた。
市川智子さんの「愛と哀しみのル・コルビュジエ」と、
blog「バスルームで夢をみる」

「愛と哀しみのル・コルビュジエ」は、史実をベースに
建築家・ル・コルビュジエの格闘と成長を描いたもの。
まだ中途だが、1950年あたりが舞台になるという。
フランスのまんがを思わせるような、軽やかなタッチ。
ル・コルビュジエやとりまく登場人物が
「動いている」ことにびっくりした。
説明のための絵ではなくて、過去の「現在」が描き出されている。
「吉阪隆正の顔に惚れている」というから、出番も多いにちがいない。
早く続きが出ないかな。

イラストレーションという存在には、嫉妬してしまう。
雰囲気の核心を伝えることに、文章よりずっと長けている気がして。
持ち合わせている表現手段は、互いにそう思っているのかもしれない。
たぶんそれで健全なのだろう。
ル・コルビュジエのブラジル学生会館  妹島和代の鬼石町多目的ホール

今日はNHK文化センター青山校で、モダニズム建築の講座。
ル・コルビュジエの話から少し脱線して、ブラジル学生会館(左:1959年竣工)
のあと、妹島和世さんの鬼石町多目的ホール(右:2005年竣工)の写真を並べる。
訪れた時の、どこかで見たという感じが何から来ていたか、
写真を準備していて、やっと氷解した。
肉食ってるなという雄々しさと、そうでないという違いはあるけれど、
創造力は数十年単位の射程だと、あらためて思う。
早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校の講義を終えて帰宅。
10回シリーズの5回目。今日の演題は「世界旅行」だった。
建築史家/建築家の伊東忠太が、1902~05年のアジア・欧米留学で何を見て、
何を考えたかを、世界情勢(最後の探検時代、日露戦争など)とからめて話す。
5分単位のスケジュールを作ってみたものの、90分で世界一周は、やはり無理がある。
中国 → ミャンマー → インド → ドイツ → トルコ → エジプト
→ イスラエル(のあたり)→ シリア、と進んだところで、時間切れ。
アジアでの見聞と構想の断片を携え、いよいよ「本丸」のギリシア、
ヨーロッパに足を踏み入れる。
そこで忠太は、建築の《西洋中心主義》といかに対決したのか!
(パ、パン、パン、パン)というところで、以下、次回に続く。

考えてみれば、ディープな講座である。
最新の研究成果を聞いてもらえるのは、幸せなことだ。
問題は、私が訪れていない場所を、受講生の方は知っている可能性があること。
知性と行動のレベルが高いのだ。めったなことは言えない。
まあ、100年前に生まれていた方はいないから、戦後建築に比べれば気は楽だけど。

伊東忠太の世界旅行の辞令

上は世界旅行(留学)の辞令。
文部大臣の菊地大麓は、前年に東京帝国大学総長から転任し、
この年に男爵を授かった。吉阪隆正の母の父の兄なのだから、
吉阪さんは、ほんとエリートだ。
気が向いたテーマを綴る、時系列無視の「思い出しblog」。
(10月22日の記事で書いた)米沢の翌日は山形に行ったのだった。
県立図書館の地下にこもって、日が暮れるまで、伊東忠太の資料調査。
主に実家に宛てた書簡が、ここにたっぷり所蔵されている。

高校生時代の書簡は、記録に現れない空白期を埋める数少ない資料だ。
大学院時代の文章からは、「法隆寺建築論」の調査過程が分かる。
1902年から3年3か月かけて世界をめぐった
アジア・欧米留学の間にも、実家にたくさんの手紙を出している。
シルクロードに行くはずだった旅程の地図が見つかったのも収穫だった。

留学中、最後のハガキは1905年6月、ニューヨークから出したもの。
「当市は欧州の大都とはまた格別で実に金の力でドンナことでもヤッて居ります。
 何れ御目にかヽりましてゆる/\お話致しましやう《中略》
 いよ/\帰朝も近づきまして何となく嬉しく思ひますが、
 又欧米に名残も惜しまれます。
   六月二日            ニユーヨルク市にて
                          忠太」
なお、この年の暮から、永井荷風は横浜正金銀行のニューヨーク支店に勤める。

帰国後、アメリカの建築について、忠太は具体的に語らない。
しかし、勘の良い彼のことである。
新しい何物かを、アメリカに直観したのは確かだろう。
《建築》という19世紀の枠組みに取って代わろうとする、得体のしれない《建設》。
20世紀の建築がそれとの闘いで彩られることに、いち早く気づきながら、
彼自身は、それと正面きって格闘することは無かった。
でも、教育者としては別だ。
東京帝国大学の教壇に立つと、建設中のシンガー・ビルのことを、
さっそく「建築史」の講義で語っている。
1908年に完成した187mのシンガー・ビルは、その後の摩天楼競争に火をつける。

朝から快晴で、風も爽やか。
そんな陽気に背を向けても、惜しいと思わなかったほどに、
忠太づけの2日間だった。
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