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10月いっぱい開催の「つくばスタイルフェスタ」を見学に、
つくばエクスプレスの研究学園駅におり立つ。
学園駅前

がら~ん、と効果音の聞こえてきそうな駅前。
目立つのは、高層マンションの大きな広告。
「六本木ヒルズの入江三宅事務所、総合監修」!とのこと。ふ~む。
すぐ脇の第一会場には、仮設の出店が並ぶが、ポスター展示が多く、
人がいる店は半分くらいか。焼饅頭やラーメンを売っている。
スーツ姿の関係者や、地元の方と何人かすれ違ったくらいで、
わざわざ訪れたような方は他にいない。ひゅ~。
予期してはいたものの、あまりの官製イベントらしさに、くじけそうになる。

気を取り直して、第二会場へ。
ここに来たお目当ては、今しか見られない「版築の家」なのだから。
ロコ・アーキテクトの根津武彦さん、沢瀬学さんが設計、
ICSカレッジ・オブ・アーツの学生も手伝っている。
骨材やセメントなどを敷きならし、押し固めた「版築」による住居のモデル提案。
「つくばスタイル」をテーマにしたコンペで1等を獲得し、
フェスタの会期中にだけ、この世に姿を現わした。
「土」というこれ以上ない程の「自然素材」を使いながらも、鈍重でない。
くっきりとした稜線の上に、鉄の屋根。
シャープな造形と融合して、今まで目にした事の無い、
それでいてピラネージの版画か何かで見たような風景が生まれている。
版築全体 版築部分

しかし、見ない振りしても気になるのが、あちこちに置かれたカラーコーン。
まるで、この赤いプラスチックが主役だ。
中に入ると100%の安全は保障できませんよ、ということだろうが、
構想力の提示であれば、視覚的な印象が肝心なのでは?
何とかならなかったのか?

その後、つくばセンターへ。
以前、叔父が筑波に勤めていた時分には、良く訪れたものだったが、
スタバや雑貨屋が入ったモールができて、
その頃より格段に、生活のにぎわいが感じられる。
若いカップルも、家族連れも、ご年配の方もいる。
特に派手なところも、浮ついたところも無い、日常の風景がある。
しかし、歩いているうち、「なにか違う」と思いだす。
ここには無いものがある。
北関東らしい若者の姿や、見えづらいものが無い。
すべてがフツーに、清々しい。
まるで正規分布の一定値以下を、足切りしたような風景。
もちろん、それは「人工」に支えられているわけだが、
子どもを豊かに育てたり、「スロー」したり、「ろはす」したり、
「自然に品のいい」場所を求めてしまう私たちに、
これほどふさわしい土地は、なかなか探しだせないのではないか?
車社会なので、居心地の良いレストランが、市中に散在している。
立ちよって地の野菜を頬張りながら、またそう思った。


西武の本屋で見つけた雑誌。エイ出版社らしい、垢抜けた写真と文章。
食と暮らしと建築の情報が素敵で、つくばに住みたくなる。
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「褒められてますぜ、アニキ」と、弟からメールが入って、
見ると「日経アーキテクチュア」の最新号に寄せた文章が、
「建築雑誌オールレビュー」で採り上げられていた(10月18日付)。

「平成クライアント列伝」の特集の中で、
昭和のクライアントについて、4ページを与えられた。
一目で分かる見取り図を作ったり、
ひとまず腑に落ちるような「結論」を考えてみたり。
最初に枠組はあるものの、基本的には、それぞれの目論見で
書かれたものを加算してできる普通の建築雑誌
(最近は書籍もそうかもしれない)とは違って、
全体の中のパーツとして求められる心地よさを感じる。
原稿料がページいくらなのも、ライターさん気分の一因か。

それにしても、このページは知らなかった。
建築・住宅・インテリアを扱う20数誌の読みどころを、すぐに紹介。
「やるなら全部」というのは、単純でいて、常に意義深いと思う。
東京ガス運営による「PF1」の提供、「建築&住宅メディア研究会」が執筆。
代表は、建築&住宅ジャーナリストの細野透さん。
「ぽむ企画」の平塚桂さんもライター陣の一人で、
これはもう筆致が違うので、一目瞭然。
女子文体で、読ませます。
テレビ番組が縁で、思わぬ舞台に立つことになった。
居並ぶ制服の高校生700名。
見渡すと、学生服とブレザーがちょうど半々だ。
「本校ゆかりの偉人を探ねる」と題して、
伊東忠太の特別講義をすることになった。
ここ米沢興譲館高校は、1697年につくられ、
上杉鷹山が再興した、藩校の興譲館を前身とする。
近代には中学校、戦後は高等学校として、多くの人材を輩出し続けている。
卒業生に、海軍大将・山下源太郎、哲学者の高橋里美、童話作家の浜田広介など。
文化勲章受章者も二人。伊東忠太と、民法学者の我妻栄である。
ここは大学か県のホールか、と思うような立派な講堂は、
卒業生会から寄贈されたものという。
興譲館高校 興譲館記念室 卒業生の資料を集めた記念室

米沢駅で出迎えていただいた物理の先生が、今回の企画担当の方。
「ゆかりの偉人」で行こうということは念頭にあって、
どうしようかと考えていた3月のある日、ふとテレビを付けると、
「妖怪を見た男―近代建築の巨人・伊東忠太の世界」が放送されていた。
すぐに制作した山形テレビに連絡。生徒の目線に近い人ということで、
担当のディレクターから、出演者のアドレスを聞いたという。
外部の先生による特別講義は、毎年おこなっていて、
2年前は数学者の秋山仁さんが講演、生徒に受けていました。
そんなお話にプレッシャーを感じるよりも、
僕の神経は、目の前の米沢牛の美味しさに集中していたのだった。

講義の時間は1時間と少し。
講堂の設備が整っていたのと、聴衆の真面目さがあって、とても話しやすかった。
最後に生徒代表が壇上に上がり、お礼の言葉を述べる。
通り一遍のあいさつと想像していたら、
伊東忠太の中には「美術」と「学理」と「国家(≒社会)」への志向があって、
それは彼が大学に入った時の「建築」とは相いれないものだったのだけど、
自分を信じて「建築」という存在のほうを変え、結果的に先駆となった。
今とだいぶ時代は違いますが、世の中というのは、いつの時代も、
でき上がってしまっていると思ったらそうだし、過渡期だと思えば過渡期です。
だから、世の中が自分の思う通りでなかったら、忍耐強く、
大胆に、それを変えていってください(訓話めいてますな)。
といった主旨をうまく読み込んで、意見を述べていた。感心だし、嬉しい。
終了後、校長先生、教頭先生方と歓談。
担当者の顔はつぶさなかったようで、胸をなで下ろす。

米沢を訪れるのは、番組撮影のとき以来1年ぶり4度目だが、
これまでは雪の無い時期にしか来ていない。次は冬を体感しなければ。
ワルダクミを抱えて、群馬県の松井田町へ。
東京理科大の助教授を務め、
ジャン・プルーヴェの研究や、9月24日に一般公開が始まった
ブルーノ・タウトの旧日向別邸の調査など、多忙を極める山名善之さん、
日東設計事務所に勤務され、同潤会の調査や、集合住宅歴史館の関与など、
歴史的建造物の調査研究のエキスパートである志岐祐一さんと。
このメンバーなら話は尽きない。
東京から新幹線の高崎乗換えで1時間半。
移動の短さよりも、松井田はさらに近くに感じた。
群馬県の松井田町役場

「建築」の住民に「松井田町」と尋ねれば、「白井晟一の旧役場」と答える。
陽光の中でたたずむ姿は、まさに「田園のパルテノン」。
役場としては使われなくなったが、その存在感はいまだ現役だ。
1954年の合併で生まれた現在の松井田町。
その名は来年3月、隣の安中市との合併で消滅することが決まっている。
旧庁舎は、戦後の松井田町の歩みが凝縮されたシンボルではないか。
建築に首を突っ込んだ者の身びいきもあるけれど。

東京から適度な地の利にあって、自然は豊か。
東南には、ちかごろ市に移管された旧富岡製糸場、
県は世界遺産への申請に前向きだ。
西方には碓氷峠のレンガ橋があって、トロッコ列車が走る。
折しも、今年は白井晟一の生誕から100年。
松井田町役場が1955年に完成して、50年になる。
もう一花、咲いていただきたいと強く思ったのだった。
芸事に親しむのも良いかと、吉祥寺の月窓寺で開かれた薪能をみてきた。
武蔵野商工会議所の主催で、今年がちょうど二〇周年。
シテ関根祥六、ツレ関根祥人、子方関根祥丸の三代共演による「楠露」に始まり、
狂言の「二人袴」、仕舞、
観世芳伸が住吉明神を務める「高砂」まで、全部で2時間半の演目である。
吉祥寺・月窓寺の薪能

と、まぁ知ったような口ぶりだが、能とは縁の遠い生活。
前日から寝不足だし、ウトウトしたらどうしようと思っていたのだが、
無用の心配だった。
入れ替わり立ち替わり、さまざまなパートが現れる。
オペラであり、コーラスであるし、
パントマイムであり、タップダンス。
ヒップホップ(Yo! Yo! ahhと、Yo~ Yo~ Ha!の違い位で)
に乗ったダンスであり、ファッションショーでもある。
能が、こんなに盛りだくさんのものだとは。
「現在とかけ離れたゆったりという時間」という気はせず、まるで飽きなかった。

特に最後がいい。
亀井広忠の太鼓と掛け声が次第にテンポを増し、
舞いは空間をいっぱいに使い、足を踏みならして、それに呼応する。
さきほどまで鳴っていた笛やセリフは、いつしか姿を消して、
舞台は、集中へと向かっている。
これは視覚的な刺激なのだろうか、聴覚的な刺激なのだろうか。
激しいようで、凛と静まり返っているようにも思える。
時間の長さも不明瞭になる、ダンスの原初的な陶酔。
それが最高潮に達したところで、ふっと消える。
現実と虚構のあいだに、自分が置いてきぼりにされたような、
それでいて、虚構が現実のほうに染み渡るような感じ。
村上春樹の小説の読後感を思い出した。
この感覚はクセになりそうだ。
無念、タイミングが悪かったか。
9日「朝日新聞」の書評欄を開くと、呻いたのである。

とり上げられていたのは、『吉阪隆正とル・コルビュジエ』
ではなく、同じ9月に刊行の『前川國男 ― 賊軍の将』。
前川國男さんと親交が深く、長らく「代弁人」の感もある
宮内嘉久さんによる入魂の一書だ。
前川さんは、大学や組織に偏らない、建築界の心棒のように認識されているし、
12月に東京ステーションギャラリーで、大回顧展が開催されるという話題性もある。
筆者は歴々たる業績を積み重ねられた実力者。倉方より半世紀ほど年長でもある。
こいつは分が悪かった、と納得。
― しかし、内容の優劣と捉えないのが、おめでたいな。

いま、目の前に「日経新聞」の書評欄がある。
「日経新聞に『吉阪隆正とル・コルビュジエ』の書評が出ていましたね。」
ファックスを知人からいただいたのだった。
取り寄せて見ると、二段抜きで載っている。評者は建築評論家の飯島洋一さん。
1980年、早稲田大学建築学科の3年生のときに、
吉阪さんの講義を聴いた思い出に始まり、
「もっと未来を『先取り』した建築家としての吉阪隆正を評価すべきである」
という本の内容をかいつまんで紹介。
最後に、吉阪隆正とル・コルビュジエが並んだ表紙写真に目を向け、
常に私たちを向き、いつも世の中に対峙しているル・コルビュジエと、
つねに私たちに背中を向け、ル・コルビュジエの主張を伝達する吉阪隆正との
違いを指摘して、文を閉じる。

渋い本を取り上げていただいたこと、
飯島さんに「そういう建築家・吉阪隆正を若い歴史家は丁寧に解きほぐし、
これを力作に仕立て上げた」との過分なお褒めの言葉もいただいたこと、
ありがたい。
出版元の山岸さんも、少しはほっとするかもしれない。
「吉阪語りは自分語りの法則」(拙著あとがき参照)が
検証できたことも、個人的にはうれしかった。
問題:この中で、屋根に植物が生えていないのは、どれでしょう?
(1) ヒヤシンスハウス
(2) タンポポハウス
(3) ニラハウス
(4) ケヤキハウス

正解は、(1)と(4)。今日は、そのうちケヤキハウスを訪れた。
((1)ヒヤシンスハウスについてはこちらの記事を参照)
JR駒込駅から徒歩2分という好立地に建つ賃貸住宅。
取り扱うは、タカギプランニングオフィス。
とくれば、いわゆる「デザイナーズ・マンション」なのだが、
行ってみると、予想は裏切られるにちがいない。
手の跡を残したクリーム色の左官壁。
入口近くの集会室は和風で、古材の色合いも風流だ。

ケヤキハウス入口

この地に初めてお邪魔してから、もう5年近くになる。
当時所属していた中川研究室に、建物の歴史的価値について問い合わせがあり、
大学院生とともに、実測調査や研究フォーラムなどの活動を行ったのだった。
設計者は、バウハウスへの留学で有名な山脇巌(1898~1987)。
1954年に住宅が、60年に離れが建てられた。
山脇巌の戦後の活動は、それまでほとんど報告されていなかったので、
研究で判明したさまざまな事実に、胸躍らせたものだった。

その住宅を取り壊し、新たなマンションを建設するということになった。
困難な課題に挑んだ建築家は薩田英男さん(薩田建築スタジオ)正田亨さん(マヌファット)
オーナーの意向を受けて、山脇巌の妙(奇妙?、絶妙?)な
和風感覚を引き継べく、積極的に古材の利用に努めた。
欅の木も植替えられた。
大木なので少し心配だったのだが、1年たった今、
すっかり根づいて、青々とした葉を茂らせている。
欅は、山脇がもっとも好きな木だった。
自身の論集を『欅』と名づけるほどに。

今回は「十月祭」というアート・音楽・講演会の催し。
応接間と茶室を再現した集会室を会場に、
建築とアートのコラボレーションが素敵だった。
例えば、銀のチェックの壁紙に、図太い梅の床柱
(裏に穴を開けて電球を仕組んでいる)の茶室には、
アラン・ウェスト氏のニューウェーブ掛け軸。
奔放な「日本」が拮抗している。

ケヤキハウス内部

この家を建てたオーナーは芸術に造詣が深く、
特に篆刻のコレクターとして有名だった。
日本大学芸術大学の教授を長く務めた山脇巌とも、友人の関係だった。
建物の形が変わっても、総合芸術としての建築という意味合いは、
この地に脈々と息づいている。
こんな建て替えならば、構わないと思うのだ。
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