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伊東忠太の『阿修羅帖』の2枚目は、1914(大正3)年8月10日の「全欧修羅の巷となる」です。前回の絵と構図は似ていますが、動きが出ていますね。
この動きが100年前の第一次世界大戦の激動そのものであることを、「Yahoo!ニュース個人」で書きました。

阿修羅帖002t
終戦の8月に100年前の開戦を考える(「建築史家は語る」Yahoo!ニュース個人)

もうすぐ8月15日。
日本がポツダム宣言を最終的に受諾したのは8月14日、降伏文書に調印したのは9月2日です。こちらが国際的には終戦記念日なのに、8.15の特権化はいかに成立したのかを、佐藤卓己『八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学』(ちくま新書、2005)は描いています。

1945年8月10日は、ポツダム宣言の受諾が昭和天皇のいわゆる「ご聖断」によって方向付けられた日です。その34年前に、第一次世界大戦は本格化します。
伊東忠太の絵は親しみで引きつけながら、厚みを持って二つの「8月」の意味を考えさせます。
その技量は建築家のそれであり、まごうことなき建築史家だと、筆遣いの一つ一つを見返して、改めて思わされるのです。
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1911(明治44)年に静岡県袋井に完成した「可睡斎護国塔」は、伊東忠太が世界一周留学から帰国し、自分のヴィジョンを定めて最初に完成させた建築です。

可睡斎護国塔正面

なぜ、この地に産み落とされたのか?
そして、設計者である伊東忠太とは?
自分のまちの遺産に目を向けた皆さまからお電話をいただき、勉強会を重ねてきました。完成から100年を記念した展覧会を可睡斎で開催し、工学院大学の後藤治さんなどにお越しいただいたシンポジウムも盛況でした。
ギャラリーエークワッドの松隈章さんから伊東忠太「旧伝道院」展の相談を受けていたので、東京の展覧会に可睡斎護国塔も加えていただきました。地域から発信する上で、これもタイムリーでした。
このたび、地元の方々の手で「可睡斎護国塔物語」という冊子がまとまりました。

可睡斎護国塔物語(倉布人◆日常空間)

100年展実行委員会は「袋井まちそだての会」に発展し、今も地域の歴史の掘り起こしを続けています。可睡斎護国塔を見直すことをきっかけに、地域の行動人・知識人が集まったのです。
単体の古い建築も、まちを創造的に動かすことができるはずです。そこにも建築史家の果たす役割があるのではないか。何年間も袋井に通う中で、まちの誇りと建築史とを結ぶという実践について、私も多くを学ぶことができました。
縁ですねー。関わったすべての方々に感謝です。そして、そもそもが実践の建築史家であった伊東忠太さんにも!
伊東忠太の年賀状_倉方俊輔

年賀状の行き来も一段落して、もう丑年も一週間が過ぎた。

冒頭に掲げたのは、「丑」ではなくて「酉」だが、建築史家であり建築家の伊東忠太(1867-1954)が描いた賀正の図案。前に伊東忠太 (「INAX REPORT」の記事pdf)について博士論文をまとめる中で出会った。
いかにも伊東忠太らしくて、ニヤリとさせられる。
よく見ていこう。鳥のスタイルは鳳凰を重ね合わせた中国趣味。ややアクの強い曲線で全体をまとめ上げ、色づかいもカラフル。羽根の先はパルメット紋という建築装飾にも使われる文様に変容している。加えて、鳥のポーズや表情がコミカルである。よく見れば「賀正」の枠線は「卵」になっている・・・芸が細かいなぁ。
以上をまとめると《アジア趣味》《曲線による統合》《カラリスト》《建築の様式的細部と動物意匠の融合》《動物意匠の滑稽さ》となる。これらは伊東忠太の建築設計の特徴でもあったりする。
年記はなく、描かれた年を特定できてはいないが、周辺資料等から推測すると、大正10(1921)年の可能性が高い。初めに「図案」と書いたが、それより「図按」という表記のほうがふさわしい。そんな時代のウィットだ。
最高学府・東京帝国大学(現・東京大学)の「正門」は、明治最後の年にようやく完成した。有名な赤門は正門ではなく、現在の正門の場所には、それまで木製の「仮正門」があった。
現在の正門の設計には、伊東忠太が手を貸した。形式としては江戸時代の冠木門をモチーフに、材料を花崗岩・煉瓦・鉄という燃えない材料に置き換えている。
いかにも「建築進化論」を唱えた伊東忠太らしい思考。そう早合点しそうになるが、この方針を決めたのは、当時総長だった浜尾新だった。「武士道精神」や「国体」が大好きで、夏目漱石に「明治四十二年の東京大学総長の頭脳の程度はこの位にて勤まるものと知るべし」と日記で揶揄されている浜尾新である。
伊東忠太らしさは、門扉や冠木形といった鉄部のデザインに現れている。迂曲するその曲線に…。門扉には唐草文様が彩られ、下部には青海波模様があり、冠木形では波打つ水と雲の模様が中央にある東京帝国大学の紋章を飾る。竣工の時の記事を読むと、唐草模様は「唐の金具様の輪郭」とされ、冠木形の上部曲線は「幾分『ゴツシク』式迫持の意義」を含むと説明されている。
「和魂洋才」のような門のコンセプトは、設計者に与えられた条件だった。伊東忠太は、それを踏まえながら、自らの嗜好と世界観をデザインに投影した。堅苦しくない曲線で正門を彩り、日本、東洋、西洋の様式を接続しようとしたのだ。

*下の写真をクリックするとgoogleマップに飛びます。
  
盛岡城の本丸跡(盛岡城跡公園/岩手公園)に建つ南部伯爵銅像の台座。語られることはほとんどないが、建築家/建築史家の伊東忠太の設計作である。しかも、世界旅行(1902-05)から帰国して最初に完成した作品という歴史的位置づけも付帯する。
銅像は太平洋戦争中に供出されてしまい、現在は台座だけが残る。騎馬像は彫刻家・新海竹太郎(1868-1927)の作で、伊東と新海の初めての共同制作でもある。
離れて眺めると、全体のシルエットは伊東忠太の得意とした妖怪画を思わせる。狛犬のようでもある。堂々として、愛らしい。

*下の写真をクリックするとgoogleマップに飛びます。
  
昨年の後半に、伊東忠太関係で立て続けに原稿を頼まれた。
一つはリニューアルした「INAX REPORT」の巻頭特集「生き続ける建築」で、毎回1人、明治~昭和の建築家にスポットを当てた総論。
代表的な作品をカメラマンが新たに撮り下ろし、年表やオリジナル図面も大きなサイズで掲載したいという。
資料的価値のある雑誌の企画や単行本の発行が難しい今、願ってもなかなか無い、本格的な「日本近代建築」の企画である。

INAX REPORT
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連休中なので朝寝していたら、電話が鳴って、
誰だろうと思ったら、建築家の丸山欣也(アトリエ・モビル代表)さんだった。
フランスに行った先日、ル・コルビュジエ財団に寄って、
吉阪隆正さん関連の手紙を出してもらったら、これがなかなか面白い。
資料のコピーを一式、送りたいので、新しい住所を教えてほしいとのことだった。

中には、国立西洋美術館を建設している最中に、
ル・コルビュジエが吉阪隆正(や坂倉準三や前川國男)に送った文書や、
留学前の1947年に、吉阪隆正がル・コルビュジエに
出した手紙もあるというのだから、気分が高ぶらないわけがない
(理由はやや専門的になるので、『吉阪隆正の迷宮』の第3夜や
『吉阪隆正とル・コルビュジエ』第2章を参照してください)。
感謝を告げて受話器を置いた時には、すっかり目が覚めていた。


明くる日に封書が届いた。
表書きから、すでに丸山欣也ワールド。
書かれた住所の文字と配置が、丸山さんの情感あふれるスケッチと
同じタッチであることに感心してしまう。

添書きの文章にもじ~んとしながら資料を開く。結構な量である。
丹下健三がル・コルビュジエに宛てた手紙が目についた。
日付は1959年6月20日。
「私の尊敬するル・コルビュジエ様
  日本語でお手紙を差上げることをお許し下さい」
という書き出しで、便せん3枚に日本語で書かれている
フランス語訳は、進来廉さんにお願いしたらしい。
ル・コルビュジエへの敬愛の情がていねいに、
やや形式張って綴られていて、人となりが伺えるようだ。

「私がパリーに発つ前々日に貴方の東京の美術館の開館式がございました。
私たち建築家は感激しております。」
国立西洋美術館の開館は1959年。
当時、丹下健三45歳、ル・コルビュジエ71歳。
上野に残る美術館は、じきに50年を迎える。


便せんの左上に目をやると、事務所名と住所が印刷してある。
「KENZO TANGE」の文字がひときわ大きい。
力強くて、シャープで、まるで古さを感じさせない。
勝因は、5文字・5文字の名前で、バランスがいいことか?
そこいくと「YOSHIZAKA」や「MAEKAWA」は冗長だ。
「ITO」や「ANDO」は良いけど、なんて思いながら、
さっきから感じていた既視感の原因が、
アパレル・ブランドの「KENZO」のロゴに似ていることだったのに気づく。
均整のとれた文字配列が、同様のフォントを誘うらしい。

あとはフランス語なので、これから読解することにしよう。
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