誰だろうと思ったら、建築家の丸山欣也(アトリエ・モビル代表)さんだった。
フランスに行った先日、ル・コルビュジエ財団に寄って、
吉阪隆正さん関連の手紙を出してもらったら、これがなかなか面白い。
資料のコピーを一式、送りたいので、新しい住所を教えてほしいとのことだった。
中には、国立西洋美術館を建設している最中に、
ル・コルビュジエが吉阪隆正(や坂倉準三や前川國男)に送った文書や、
留学前の1947年に、吉阪隆正がル・コルビュジエに
出した手紙もあるというのだから、気分が高ぶらないわけがない
(理由はやや専門的になるので、『吉阪隆正の迷宮』の第3夜や
『吉阪隆正とル・コルビュジエ』第2章を参照してください)。
感謝を告げて受話器を置いた時には、すっかり目が覚めていた。
明くる日に封書が届いた。
表書きから、すでに丸山欣也ワールド。
書かれた住所の文字と配置が、丸山さんの情感あふれるスケッチと
同じタッチであることに感心してしまう。
添書きの文章にもじ〜んとしながら資料を開く。結構な量である。
丹下健三がル・コルビュジエに宛てた手紙が目についた。
日付は1959年6月20日。
「私の尊敬するル・コルビュジエ様
日本語でお手紙を差上げることをお許し下さい」
という書き出しで、便せん3枚に日本語で書かれている
フランス語訳は、進来廉さんにお願いしたらしい。
ル・コルビュジエへの敬愛の情がていねいに、
やや形式張って綴られていて、人となりが伺えるようだ。
「私がパリーに発つ前々日に貴方の東京の美術館の開館式がございました。
私たち建築家は感激しております。」
国立西洋美術館の開館は1959年。
当時、丹下健三45歳、ル・コルビュジエ71歳。
上野に残る美術館は、じきに50年を迎える。
便せんの左上に目をやると、事務所名と住所が印刷してある。
「KENZO TANGE」の文字がひときわ大きい。
力強くて、シャープで、まるで古さを感じさせない。
勝因は、5文字・5文字の名前で、バランスがいいことか?
そこいくと「YOSHIZAKA」や「MAEKAWA」は冗長だ。
「ITO」や「ANDO」は良いけど、なんて思いながら、
さっきから感じていた既視感の原因が、
アパレル・ブランドの「KENZO」のロゴに似ていることだったのに気づく。
均整のとれた文字配列が、同様のフォントを誘うらしい。
あとはフランス語なので、これから読解することにしよう。
10回シリーズの5回目。今日の演題は「世界旅行」だった。
建築史家/建築家の伊東忠太が、1902〜05年のアジア・欧米留学で何を見て、
何を考えたかを、世界情勢(最後の探検時代、日露戦争など)とからめて話す。
5分単位のスケジュールを作ってみたものの、90分で世界一周は、やはり無理がある。
中国 → ミャンマー → インド → ドイツ → トルコ → エジプト
→ イスラエル(のあたり)→ シリア、と進んだところで、時間切れ。
アジアでの見聞と構想の断片を携え、いよいよ「本丸」のギリシア、
ヨーロッパに足を踏み入れる。
そこで忠太は、建築の《西洋中心主義》といかに対決したのか!
(パ、パン、パン、パン)というところで、以下、次回に続く。
考えてみれば、ディープな講座である。
最新の研究成果を聞いてもらえるのは、幸せなことだ。
問題は、私が訪れていない場所を、受講生の方は知っている可能性があること。
知性と行動のレベルが高いのだ。めったなことは言えない。
まあ、100年前に生まれていた方はいないから、戦後建築に比べれば気は楽だけど。

上は世界旅行(留学)の辞令。
文部大臣の菊地大麓は、前年に東京帝国大学総長から転任し、
この年に男爵を授かった。吉阪隆正の母の父の兄なのだから、
吉阪さんは、ほんとエリートだ。
(10月22日の記事で書いた)米沢の翌日は山形に行ったのだった。
県立図書館の地下にこもって、日が暮れるまで、伊東忠太の資料調査。
主に実家に宛てた書簡が、ここにたっぷり所蔵されている。
高校生時代の書簡は、記録に現れない空白期を埋める数少ない資料だ。
大学院時代の文章からは、「法隆寺建築論」の調査過程が分かる。
1902年から3年3か月かけて世界をめぐった
アジア・欧米留学の間にも、実家にたくさんの手紙を出している。
シルクロードに行くはずだった旅程の地図が見つかったのも収穫だった。
留学中、最後のハガキは1905年6月、ニューヨークから出したもの。
「当市は欧州の大都とはまた格別で実に金の力でドンナことでもヤッて居ります。
何れ御目にかヽりましてゆる/\お話致しましやう《中略》
いよ/\帰朝も近づきまして何となく嬉しく思ひますが、
又欧米に名残も惜しまれます。
六月二日 ニユーヨルク市にて
忠太」
なお、この年の暮から、永井荷風は横浜正金銀行のニューヨーク支店に勤める。
帰国後、アメリカの建築について、忠太は具体的に語らない。
しかし、勘の良い彼のことである。
新しい何物かを、アメリカに直観したのは確かだろう。
《建築》という19世紀の枠組みに取って代わろうとする、得体のしれない《建設》。
20世紀の建築がそれとの闘いで彩られることに、いち早く気づきながら、
彼自身は、それと正面きって格闘することは無かった。
でも、教育者としては別だ。
東京帝国大学の教壇に立つと、建設中のシンガー・ビルのことを、
さっそく「建築史」の講義で語っている。
1908年に完成した187mのシンガー・ビルは、その後の摩天楼競争に火をつける。
朝から快晴で、風も爽やか。
そんな陽気に背を向けても、惜しいと思わなかったほどに、
忠太づけの2日間だった。
居並ぶ制服の高校生700名。
見渡すと、学生服とブレザーがちょうど半々だ。
「本校ゆかりの偉人を探ねる」と題して、
伊東忠太の特別講義をすることになった。
ここ米沢興譲館高校は、1697年につくられ、
上杉鷹山が再興した、藩校の興譲館を前身とする。
近代には中学校、戦後は高等学校として、多くの人材を輩出し続けている。
卒業生に、海軍大将・山下源太郎、哲学者の高橋里美、童話作家の浜田広介など。
文化勲章受章者も二人。伊東忠太と、民法学者の我妻栄である。
ここは大学か県のホールか、と思うような立派な講堂は、
卒業生会から寄贈されたものという。
卒業生の資料を集めた記念室米沢駅で出迎えていただいた物理の先生が、今回の企画担当の方。
「ゆかりの偉人」で行こうということは念頭にあって、
どうしようかと考えていた3月のある日、ふとテレビを付けると、
「妖怪を見た男―近代建築の巨人・伊東忠太の世界」が放送されていた。
すぐに制作した山形テレビに連絡。生徒の目線に近い人ということで、
担当のディレクターから、出演者のアドレスを聞いたという。
外部の先生による特別講義は、毎年おこなっていて、
2年前は数学者の秋山仁さんが講演、生徒に受けていました。
そんなお話にプレッシャーを感じるよりも、
僕の神経は、目の前の米沢牛の美味しさに集中していたのだった。
講義の時間は1時間と少し。
講堂の設備が整っていたのと、聴衆の真面目さがあって、とても話しやすかった。
最後に生徒代表が壇上に上がり、お礼の言葉を述べる。
通り一遍のあいさつと想像していたら、
伊東忠太の中には「美術」と「学理」と「国家(≒社会)」への志向があって、
それは彼が大学に入った時の「建築」とは相いれないものだったのだけど、
自分を信じて「建築」という存在のほうを変え、結果的に先駆となった。
今とだいぶ時代は違いますが、世の中というのは、いつの時代も、
でき上がってしまっていると思ったらそうだし、過渡期だと思えば過渡期です。
だから、世の中が自分の思う通りでなかったら、忍耐強く、
大胆に、それを変えていってください(訓話めいてますな)。
といった主旨をうまく読み込んで、意見を述べていた。感心だし、嬉しい。
終了後、校長先生、教頭先生方と歓談。
担当者の顔はつぶさなかったようで、胸をなで下ろす。
米沢を訪れるのは、番組撮影のとき以来1年ぶり4度目だが、
これまでは雪の無い時期にしか来ていない。次は冬を体感しなければ。



