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2014.07.27
伊東忠太の『阿修羅帖』で読み解く第一次世界大戦
「Yahoo!ニュース個人」を始めました。「建築」という眼鏡で社会を見たらどうなるか、面白く読んでいただけたらと思います。

開戦100年、建築家が描いた第一次世界大戦(「建築史家は語る」Yahoo!ニュース個人)
第一次世界大戦が始まって、明日で100年になります。
この大戦、日本ではあまり意識に上りませんが、第二次世界大戦や冷戦後の世界に大きく影響を与えた画期。文学でも、美術でも、建築でも、20世紀を調べようとすると、すぐに第一次世界大戦の経験に出会います。
1914〜18年の大戦を経て、私たちは19世紀を終え、今と地続きの20世紀を迎えたと言えるわけですが、それはいったいどういうことなのでしょうか?
伊東忠太(1867-1954)に、それを教えてもらえないかと考えました。
彼は日本で最初の建築史学者であり、築地本願寺などを設計した建築家。ライフワークといえる伊東忠太の研究を進める中で、私は彼が描いた『阿修羅帖』(1920〜21、国粋出版社)を読解することになりました
『阿修羅帖』は、1914(大正3)年7月28日にオーストリア=ハンガリー帝国がセルビア王国に宣戦布告してから、1919(大正8)年10月31日に日本がヴェルサイユ講和条約の批准に至るまで、第一次世界大戦の動向を中心に約5年3か月間の時事を、計500枚の戯画を通じて描写したもの。
膨大なので、さすがに誰も手を付けていなかったのですが、精読すると、伊東忠太の設計や行動に通じる世界観や、彼の立ち位置と時代との距離が浮かび上がってきます。
同時に、これはが日本にとっての第一次世界大戦の、最良の写し鏡になっていることにも気付きます。
そこで今日は最初の1枚、1914年7月28日の開戦を扱った「塞墺開戦」を読み解きます。
次の戯画からは、これらの人物が、くんずほぐれつの姿になり、やがて鬼に変わり、同時代の時事も絡み始め・・と、社会を変えた第一次世界大戦の多層的な経験が、伊東の描出でありありと迫ってきます。
この『阿修羅帖』シリーズ以外にも、一定の間隔で更新したいと思います。ご一読いただき、応援、ご感想などいただければ幸いです。

開戦100年、建築家が描いた第一次世界大戦(「建築史家は語る」Yahoo!ニュース個人)
第一次世界大戦が始まって、明日で100年になります。
この大戦、日本ではあまり意識に上りませんが、第二次世界大戦や冷戦後の世界に大きく影響を与えた画期。文学でも、美術でも、建築でも、20世紀を調べようとすると、すぐに第一次世界大戦の経験に出会います。
1914〜18年の大戦を経て、私たちは19世紀を終え、今と地続きの20世紀を迎えたと言えるわけですが、それはいったいどういうことなのでしょうか?
伊東忠太(1867-1954)に、それを教えてもらえないかと考えました。
彼は日本で最初の建築史学者であり、築地本願寺などを設計した建築家。ライフワークといえる伊東忠太の研究を進める中で、私は彼が描いた『阿修羅帖』(1920〜21、国粋出版社)を読解することになりました
『阿修羅帖』は、1914(大正3)年7月28日にオーストリア=ハンガリー帝国がセルビア王国に宣戦布告してから、1919(大正8)年10月31日に日本がヴェルサイユ講和条約の批准に至るまで、第一次世界大戦の動向を中心に約5年3か月間の時事を、計500枚の戯画を通じて描写したもの。
膨大なので、さすがに誰も手を付けていなかったのですが、精読すると、伊東忠太の設計や行動に通じる世界観や、彼の立ち位置と時代との距離が浮かび上がってきます。
同時に、これはが日本にとっての第一次世界大戦の、最良の写し鏡になっていることにも気付きます。
そこで今日は最初の1枚、1914年7月28日の開戦を扱った「塞墺開戦」を読み解きます。
次の戯画からは、これらの人物が、くんずほぐれつの姿になり、やがて鬼に変わり、同時代の時事も絡み始め・・と、社会を変えた第一次世界大戦の多層的な経験が、伊東の描出でありありと迫ってきます。
この『阿修羅帖』シリーズ以外にも、一定の間隔で更新したいと思います。ご一読いただき、応援、ご感想などいただければ幸いです。
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2009.08.22
形而上建築としての針尾無線塔

意外と近づけてびっくりしたのが、長崎県佐世保市にある針尾送信所の無線塔。
高圧線の鉄塔のように、足元が金網で囲われているのでは、と勝手に想像していたからだ。
大体ここら辺かなと車を走らせていると、カーブの後に3本のコンクリート塔がすっと現れた。塔は日本海軍佐世保鎮守府隷下の無線送信所として1922年に完成した。3本が正三角形に配置されている。

高さは約135mというが、周りの風景にも塔自身にもスケールを示すものがほとんど無いので、不思議な感じだ。
目の前にあるのだけど、実体感が少ないのである。
なぜここまで形態要素を減らしたのかと思うほどに、その形は抽象的だ。周囲の起伏や緑と無関係で、ものものしい戦争遺産というよりは、合成映像を見ているようだった。
それに、もともと様式的なデザインが無い上に、老朽化もしていないので、いつ建てられたものかも分からない。

まるでデ・キリコの形而上絵画のような・・・と感じてしまうのは、抽象的な形の塔にたまたま夕刻に訪れたという以上に、針尾無線塔が通常の空間と時間の積み重ねの外にある存在に思えるからだろう。
いまだ電波が歪んだ時空をつくり出しているようだ。

その印象は、近づいても変わらない。
農地の中に、それはただ建っている。基壇などが無いので、地面との接点を見ても「見切った」という感じがしない。

分節が無いので、スケールが分からない。ただ、足元には入口が設けられているのが分かり、これだけが人間との接点を示していた。それにしても形はあくまで抽象的。
それにしても、なぜこれほどコンクリートが綺麗なのだろう。手の痕跡を感じさせない冷たい肌は、風化の味わいなどという怠れた賛美を寄せ付けない。
存在が、後の歴史をすべて超越するような構築物が、この時代につくられていたことに驚いた。

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