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昨日の午後は「生きた建築ミュージアム・大阪セレクション」のイベントの一つとして、「生駒ビルヂング」(1930)・「船場ビルディング」(1925)・「新井ビル」(1922)を9名の男児女児たちと見学していった。

子ども建築ツアーのおすすめ08

実証実験(イベント)で何されますか? と大阪市の方に尋ねられた。以前から考えていた「子どもとお母さんの建築鑑賞ツアー」を、ぜひやりたいと答えた。
家と学校以外の空間を体験すること。それは成長しても何かを残すだろう。そんな第三の空間で、お母さん方にも、もっと街の楽しみを享受していただきたいという思いもあった。
それは面白い! と大盛り上がり。今も生き生きと使われ、空間的にも面白い建築を3件選定した。

子ども建築ツアーのおすすめ06

「生駒ビルヂング」(1930)は、生駒社長自らがお得意のトーク。小さな眼の輝きを惹き付けていただいた。
「船場ビルディング」(1925)は、スモールオフィスとして使われている建物にもかかわらず、子どもたちの歓声を受け入れていただいた。そんな寛容さと、息抜きの中庭を囲んだ空間構成と、クリエイティブな職種の方々が部屋を借りているということは、考えてみれば通じ合っている。
「新井ビル」(1922)では、北浜本店として入居されている「五感」さんが特別な大人味のパフェをご考案。浅田社長には食と農の解説をいただく。
先方の多大なご協力を得て、小学1~3年生と親御さん方と、2時間かけて船場の近代建築を巡った。

子ども建築ツアーのおすすめ01

設計講評や論文指導と同様、「人間は頭があるから人間なのだ」教の私としては、子どもだから、身体を動かせとけばいい、がしょうに合わない。反時代的だけど(笑)
子どもと建築の組み合わせが、ものづくりやまちづくりワークショップになるばかりではなく、見て、自分で発見して、人に伝える(その補助として専門家の解説がある)という建築鑑賞の一環として成立させられないか?
見るのも、発見するのも、伝えるのも、子どものほうが得意だし、得々として行うはず。建築を通した市民の誇りは、むしろ子どもから大人に伝わっていくべきではないか。そして、子どもは未来の大人だ。
専門家から社会への教育として、「子ども建築ツアー」は有効ではないだろうか? 建築は社会の様々なことと関わる総合的なものだから、いろんな知識が身につく。保護者の方にとっても、普段と違う空間の中に身を置くわが子をまた愛おしく思う。ミュージアムなどにしてもコマーシャルな場所にしても、受け入れる側のご理解が得られれば、これが新しいターゲットにリーチする自然な広報として機能することが分かるはず。そんな三方がすべて、子どもが持ち込む予期できない楽しさの中にくるまれる。

それで、私は子ども言葉も大阪弁も使わず、大人に対してと同じく、ガシガシ歩いて建築を説明することにした。
すると、子どもはどんどんいい質問をしてくる。なぜなら、子どもは大人や学生よりも、理性が曇りなく働いているから。

子ども建築ツアーのおすすめ04

例えば、
[私]生駒ビルの時計大きいでしょう。なんでか分かる?
[子ども]下から見るため?
[私]そうそう、当時は時計が高くてみんな持っていなかったから通りの人に時刻を知らせていたんだ
[子ども](周りを見渡して)じゃここにたくさん人が歩いていたの?
[私]御堂筋って知ってる?
[子ども]大きいところ?
[私]そうそう・・から、1920年代以前は御堂筋ではなく、堺筋が大阪のメインストリートだった話に続けた。

子ども建築ツアーのおすすめ05

あと、この緑色の看板、さっきのにも付いていた! と言うので、「登録有形文化財」の解説を加えたり。
じゃ、一番古い登録有形文化財って何? と小学2年生から鋭い質問がとぶ。
う~ん・・新しいほうは50年で資格ができるんだよ、とごまかす(笑)

子ども建築ツアーのおすすめ03

今回はあまり仕掛けをせず、子どもの見解を丁寧に聞いたり、予定していなくても街中で足を止めたものは解説したりした。
大人だって子どもだって、予定調和的に、あまりこれ見ろ盛り上がれなんて言われるのは、いやかなあ・・と。
いま思い出したのだが、高麗橋1丁目の交差点で堺筋に出て、目の前に「三井住友銀行大阪中央支店」(1936)が現れた瞬間、何人かが足を止め、一人が「博物館みたい」とつぶやいたのはよかった。
博物館も銀行も。大事なものをとっておくものでしょう。昔はそういう建物は、特に大きな柱があって、左右対称で、石の壁でつくって、がっしりと見せるようにしたんだよ、と次の「新井ビル」(元は報徳銀行)のオーダーと話をつなげられた。「へー」「へー」と隣の子も鉛筆を走らせていた。

子ども建築ツアーのおすすめ02

事前に準備したのは、スケッチブックと色鉛筆。それに絵が好きな子は絵を、書き留めるのが好きな子はメモなどを記してもらった。最後に一人ずつ発表してもらった。
その時の目線で捉えたものが、帰ってから子どもが大人に教えるきっかけや、大人が質問する手がかり、後で振り返る手立てなどになったら嬉しい。

初めての「子ども建築ツアー」は手応えがあって、子供たちからいろいろ学べた。
建築は体感と理性の両方で楽しめるものだし、子どもは大人なのだ。私たちは建築を通して、語り合える。そんな確信がまた深まった。今後も、手法を模索していきたい。
これだけは言える。
「子ども建築ツアー」ができる街は、いい街だ。

子ども建築ツアーのおすすめ07
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7月12日は旧小笠原伯爵邸でランチタイムでした。現代的なスペイン料理のコースは、どの皿も繊細で、イタリアンやフレンチのコースには慣れている朝日カルチャーのマダム方もご満悦。堪能しました。
素材感や酸味が太陽に似合って、見るのも食すのも、今がベストシーズン。旧小笠原伯爵邸のスパニッシュをおすすめします。

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さて、この旧小笠原伯爵邸は曾禰中條建築設計事務所の設計で、1927(昭和2)年に完成しました。施主である小笠原長幹は、最後の小倉藩藩主となった小笠原忠忱の長男にあたります。
個人的に共感が大きいのは、現在の大阪市立大学に着任する前に北九州の小倉で教えていたからで、当時務めていた西日本工業大学が近くにあったので、毎日小倉城を眺めていました。
本来の小倉城は、1866年に幕末の長州軍との戦いの中で焼け落ちました。物心つかない小笠原忠忱が家督を継いだのが翌年。現在の小倉城は、第二次世界大戦後の1959年に鉄筋コンクリートで再建されました。工場からもうもうと立ち上がる煙が戦後日本を牽引する、そんな時代に、「小倉」と「日本」のプライドが重なり合って復興されたのでした。

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話が脱線しました・・旧小笠原伯爵邸そのものも少し語らないと。
ルネサンス的な連続アーチや、中世的な縦長窓に加えて、タイル装飾やスペイン瓦といったスパニッシュ様式に特徴的な要素を破綻なく融合させています。さすが辰野金吾らと共にジョサイア・コンドルに学んだ日本人建築家の第1期生・曾禰達蔵が開いた事務所です。

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とはいっても、時代は明治ではなく、すでに昭和戦前。モダンな要素も十分に含まれています。
アメリカでの流行が1920~30年の日本に伝来して、スパニッシュ様式が流行りました。緩急を付けた親しみやすい装飾性や内外の連続性が、格式張った威厳よりも、家庭の団欒の支えとなる邸宅を求めていた当時の人々に好まれたのでしょう。
鉄筋コンクリート造の旧小笠原伯爵邸では、スパニッシュの特徴の一つである中庭から屋上まで、外部階段で自然に上がれるように設計されています。屋上に立てば、目の前の庭までが一体に感じられる。使ってこそ楽しめる、空間の連続性があります。様式主義的な各部屋別のデザインや毅然とした外観とあいまって、空間が行動することで変化していく。まるで最初からスペインレストランだったかのような柔軟さです。内部と外部がもっときっぱりと分かれている、あるいは威厳第一の明治の洋館では、こうは行きません。

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旧小笠原伯爵邸が完成した1927年に、中條精一郎の長女・ユリがソ連を訪れました。ユリは中條百合子の名で1916(大正5)年にデビューし、賞賛を浴びました。このソ連訪問によって、それまでの大正期の白樺派的な作風から、プロレタリア作家としての性格を強め、1931(昭和6)年には日本共産党に入党します。この年に竣工したのが、現在KITTEとして一部のデザインが残されている東京中央郵便局(設計は逓信省の吉田鉄郎)です。
こうやって並べてみると、大正的なものから、昭和戦前へとガラガラっと移行していったようで印象的ですね。つまり、モダンが従来の世界との連続性の下にあった大正から、断絶を特徴とする昭和戦前へと。とはいえ、まだ1931年の時点では、その断絶は社会派の生真面目さや重さだけではなく、いくぶん軽薄でモダンな格好良さを保っていたわけですが・・。
翌1932年にユリは、後に戦後の日本共産党の強力な指導者となる活動家・宮本顕治と結婚し、さらにその翌年に顕治が検挙されて獄中に留められると、後に宮本百合子と筆名を改めます。
戦後はアメリカ軍に接収される旧小笠原伯爵邸は、一瞬の絵に描いた幸福のような、そんな時期に建ちました。それをカヴァでも飲みながら堪能できるなんて、なんて幸せなことでしょう。BGMにはキリンジのハピネスでも。
2010.05.10 若松 島時間
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北九州の若松がいいのは、古い場所が自然に使われているところだ。
とはいえ、昔に比べれば数は減っているわけで、辛うじて残った建物や町並みの中に、自生するようにして、カフェや雑貨屋が開かれている。

要するに、計画的に整えられた感じがしないのだが、ここで述べておきたいのは、この「計画された感じ」がくせ者ということだ。この香りがすると、例えばレトロ街区の「保存」にしても再開発と同じ印象を与えてしまう。だが、若松はそうではない。自分が発見したと思わせてくれる。

しかも、ここは時間が少し「島」である。北九州市の中でも半島として突き出た位置にあって、小倉や戸畑や八幡といったエリアとは近いのに、遠い。洞海湾を隔て、他のまちを引いた視点で見られる。人々もさらにゆったりとして、まるで能古島から福岡を眺めているような気分。
これは東京の人なんて、たまらないだろう。

総論を書いたので、あとは具体的にご案内。

若松01

若松には船がおすすめだ。JR戸畑駅北口から戸畑渡場まで徒歩で3,4分。日中は15分間隔で船が出ている。わずか3分間の船旅だが、新鮮な気分になる。

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若戸大橋の下にうもれるように建つのは「杤木ビル」(1920)。福岡県を中心に活躍した建築家の松田昌平(松田平田設計を創業した松田軍平の兄)が設計を手がけた。門司にある「旧門司三井倶楽部」(1921)と同時期にあたる。デザインは小品ながら見どころが多く、キレイになりすぎていない材の佇まいがいい。

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このビルの1階に、昨年9月からヘアサロン「MAST HAIR」が入っている。高い天井、ゆったりしたスペース。広い窓の向こうに、陽光を浴びた洞海湾が広がる。
店長の女性にお話を伺うと、もともと若松で美容室を開いていたが、どうしてもこのビルが気に入り、所有者にかけあって入居したとのこと。

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落ち着いた内装は可愛くて、格好良くて、男性でもうっとりしてしまう。
明るい静寂に、スタッフが入れたコーヒーの香りが漂い、場所が持つ時の厚さをいっそう思わせるのだ。
(つづく)

[関連]
MAST HAIR
http://masthair.jugem.jp/

北九州市若松区(本町地区)編 - 近代化産業遺産総合リスト - 産業考古学研究室
http://bunhaku.hp.infoseek.co.jp/heritage-wakamatsu.html
※九州の近代建築・近代化遺産と言えばまず参照すべき、庵田綏宇さん(と一応ここのペンネームで書いておきます笑)のサイト。若松地区についても、今では失われた建物も含めリストアップされています。

生き続ける建築10:松田軍平 - INAX REPORT No.176
http://inaxreport.info/no176/feature1.html

小倉航路 - 渡船事業所 - 産業経済局 - 組織 - 北九州市ホームページ
http://www.city.kitakyushu.jp/pcp_portal/PortalServlet?DISPLAY_ID=DIRECT&NEXT_DISPLAY_ID=U000004&CONTENTS_ID=7461
博報堂旧本社ビル01 博報堂旧本社ビル05

神田錦町の博報堂旧本社ビルに、10月1日から解体工事のお知らせ。
完成は1930年で、設計は岡田信一郎。大阪市中央公会堂(1918)や現・鳩山会館(1923)、歌舞伎座(1924)や明治生命館(1934)の設計者だ。

博報堂旧本社ビル02

正面は古典主義のようだが、よく見ると左右は非対称で、右手の塔屋はロマネスク風。綱形装飾を配したてっぺんの小円柱やバルコニーに見とれつつ側面にまわれば、正面の意匠が品良く変奏されている。古典主義と中世主義が破綻無く一つにされていることに感心する。

博報堂旧本社ビル04

企業の本社に様式的な品格が求められた戦前期の産物。とはいえ、オフィスビルとしての効率も追求されなければならない。うっとりすることをやめて眺めれば、平面的にはほぼ箱形で、開口部まんべん無くとられていることに気づく。けれど、それを感じさせないくらい、壁面の凹凸の設定が適確なのである。

博報堂旧本社ビル03

最終最強の様式主義者・岡田信一郎の意匠の冴えを示す好例なのだが…。
鳩山首相の初仕事で、買っていただくわけにもいかないだろうし。
川奈ホテル01

“スイーツ(笑)”(笑)というわけで、川奈ホテルのフルーツロール。
見た目どおり、奇をてらわずバランスの取れた味で、美味しかった。
梅雨の伊豆は空いていて、狙い目ですね!

・・・話の間が持たないので、建築のことを…。

1936年開業の「川奈ホテル」は伊東市川奈に秘やかに構え、名門ゴルフコースでも知られる。
建物の設計者は高橋貞太郎。イギリス流の邸宅を得意とした。1928年に建った「旧前田侯爵邸」は公開されているので、重厚な雰囲気を味わえる。
他に手がけた建築に、例えば神田錦町にある「学士会館」がある。これは1925年に行われたコンペの当選案で、1928年に開館した。
この度、百貨店建築としては初めて重要文化財に指定される「高島屋東京店」(日本生命館)も1929年のコンペで当選した設計だ。完成は1933年。

日本橋高島屋店は、さまざまな要素のバランスをとって設計されている。お客様には、まるで自分の邸宅かのように(邸宅がある人もない人も)思ってもらいたいし、商業施設として最新の設備も備えたい。加えて、コンペの時から日本的なデザインを入れる方針でもあった。

川奈ホテル02

川奈ホテルも、なかなか複雑な条件に応えた建物だ。
外観はスペイン瓦を使って、温暖な川奈らしい、南国リゾートの雰囲気。
内部は暖炉を備え、木材や金属といった素材もいぶし銀の魅力を放つ、落ち着いた邸宅のよう。
そして、ガラス張りのサンパーラーは、背面にあるゴルフコースのクラブハウスを(機能としても見た目にも)兼ねるという仕掛けである。
品格ある混成物を設計する高橋貞太郎の力量が、川奈ホテルに良く発揮されている。

川奈ホテル03

より広く見ると、川奈という場所の性格は川奈ホテルがつくったといっても過言でない。ホテルそのものが新たなリゾート地を生み出し、認識させたことになる。
こうした性格は、戦後の「志摩観光ホテル」(近畿日本鉄道、建築設計=村野藤吾)や「ホテル立山」(立山黒部貫光、建築設計=村田政真)[過去の関連記事]などにも継承されていく。
こうした「新しさ」を、あたかも自然のように思わせられるかどうか? 金をもらって設計を行う建築家の力が問われるところなのだろう。
今年から、芝浦工業大学の大学院で「建築設計特論1」(前期)という授業を持っている。豊洲の校舎が綺麗で、迷路めいているのと、大学院生が真面目な顔で聞いているのが印象的である。


そもそも《設計》とは何だろうか? 建築家はどこまで計画でき、何をデザインすべきなのか? この根源的な問題に触れられるよう、本授業では私たちと地続きである日本の近現代建築を扱う。様式主義、モダニズム、ポストモダンといった流れの中から、毎回、具体的なトピックを論じていく。


というシラバスで、今ごろ吉阪隆正あたりを話している予定が、まだ伊東忠太を彷徨っている。

前回、『10+1』第20号に書いた「『日本近代建築』の生成──『現代建築』から『日本の近代建築』まで」(2000)の話をしたのだが、もうすでに「10+1 DATABESE」に入っていた。便利ですね。
http://tenplusone-db.inax.co.jp/backnumber/article/articleid/187/

あと、洲崎の「モダニズム」あれこれ
洲崎01 洲崎02

洲崎03 洲崎04

東京農工大学農学部本館02

「これだけ上で枝分かれしている大きなケヤキは珍しいと思います」
広報の方に解説いただいて、あー、確かに。

東京農工大学農学部本館01

正門から続く一本道の向こうには、1934年に完成した鉄筋コンクリート造の農学部本館。
それだけなら昭和戦前期のキャンパスに共通する性格だが、並木がつくる尖頭アーチの高さと、本館の塔の高さが見事に適合している。こんな眺めはそうない。枝打ちを欠かさず、手をかけてきた証だ。
さすがに自然と人工の良い関係を先導してきた、東京農工大学である。

東京農工大学農学部本館04

キャンパス内もさまざまなグラデーションの緑と、その中でアクセントを加える花々。猫が歩いていたり、鴨がいたりして、建物がその陰に隠れることの良さが味わえる。こんな雰囲気も、他にあまりない。

*「建築浴MAP」(googleマップ)で所在地を見る