2008年7月8日に閉店した大阪・道頓堀の大衆食堂「くいだおれ」。「くいだおれ太郎」のはす向かいに、その村野建築は建つ。
完成したのは1955年。界隈の飲食店ビルが高層化していったはしりだ。設計者は開口部を北側の道頓堀側に集め、道路側をほぼ無窓とした上で、壁一面にモザイクタイルで抽象的な図案を描いた。階の違いが消され、ファサードは縦長のキャンバスとなる。
モザイクタイルの抽象図案という手法は、2年前に完成した名古屋の丸栄百貨店と同じだ。しかし、こちらのほうがスケール感の消去が徹底している。高層の商業施設ならではの建築の可能性を、思い切って追求したのだった。
今もチェーンの居酒屋などが入り、施設として健在。見上げる人は多くないが、ファサードも50年前とほぼ同じである。けれど、いつ消え去るかも分からない。
「くいだおれ太郎」と同じくらい、華やかで寡黙。切なくも愉しい街角のピエロ。その姿をぜひ目に焼き付けてほしい。

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最高学府・東京帝国大学(現・東京大学)の「正門」は、明治最後の年にようやく完成した。有名な赤門は正門ではなく、現在の正門の場所には、それまで木製の「仮正門」があった。
現在の正門の設計には、伊東忠太が手を貸した。形式としては江戸時代の冠木門をモチーフに、材料を花崗岩・煉瓦・鉄という燃えない材料に置き換えている。
いかにも「建築進化論」を唱えた伊東忠太らしい思考。そう早合点しそうになるが、この方針を決めたのは、当時総長だった浜尾新だった。「武士道精神」や「国体」が大好きで、夏目漱石に「明治四十二年の東京大学総長の頭脳の程度はこの位にて勤まるものと知るべし」と日記で揶揄されている浜尾新である。
伊東忠太らしさは、門扉や冠木形といった鉄部のデザインに現れている。迂曲するその曲線に…。門扉には唐草文様が彩られ、下部には青海波模様があり、冠木形では波打つ水と雲の模様が中央にある東京帝国大学の紋章を飾る。竣工の時の記事を読むと、唐草模様は「唐の金具様の輪郭」とされ、冠木形の上部曲線は「幾分『ゴツシク』式迫持の意義」を含むと説明されている。
「和魂洋才」のような門のコンセプトは、設計者に与えられた条件だった。伊東忠太は、それを踏まえながら、自らの嗜好と世界観をデザインに投影した。堅苦しくない曲線で正門を彩り、日本、東洋、西洋の様式を接続しようとしたのだ。

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外観しか望めないが、外観だけでもその異形が知れる。周囲にベランダをまわし、木造のようなプロポーションの柱で支える。知事の公館がベランダコロニアルの「擬洋風建築」なのである。まるで明治10年代のような。
一方で、この建物の隣には書院造りの和室棟が連なる。明治20年代から昭和戦前期まで、公的な立場を持つ日本人の住まいとしてあった「和洋並列型」にならったようでもある。
完成は1974年。この年の『都市住宅』の年間テーマは「保存の経済学」だった。10月には新建築臨時増刊『日本近代建築史再考―虚構の崩壊』が出ている。戦前の「様式建築」再評価の時代だったわけだが、それは通常、最先端で活躍している建築家にとっては反「近代建築」の意を強くさせるものであったとしても、デザインの参照源ではなかったわけであり、そんな気運とシンクロして新作をつくった建築家としては大江宏以外、ちょっと思いつかない。この年にリノベーションの先駆例である倉敷アイビースクエアを手がけた浦辺鎮太郎が大佛次郎記念館(1978)や倉敷新市庁舎(1980)のようなスタイルに走るのは、もう少し後のことであるし。
公館の内部を作品集から窺うと、階段の様式的な手摺子や床のパターン柄など、キッチュすれすれにも見える。しかし、力技で素材と空間をまとめ上げているに違いない。前年に完成した大江宏の東京さぬき倶楽部(東京都港区、1973)を訪れれば、そうした推測も容易だ。

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北川原温キース・ヘリングも、私たちの世代にはなじみ深い名前だ。闇の中を行く導入部から、絵画が漆黒に浮かび上がる展示室へ。最終部の大展示室は屋根も床も大胆にカーブしている。それこそキース・ヘリングの存命時から一貫して、シュールなシーンの実現を追い求めてきた北川原さんの手法が、ここでは内容に適合している。白い箱の中に置くより、ずっとキース・ヘリングが近くに感じられる。はやく訪れて、個人美術館ならではの特権を享受したい。
外に出ると、建物を囲む木塀が浮き上がったように波打っていた。素材を生かした、というより異化したシュールなフォルム。さすが北川原さん! と膝を打ったのだが、あれは意図したものだったのか。それとも…。

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大阪の中心に横たわる全長930mの巨大建築。繊維卸店街やショッピング街などが入り、事務所も多く入居する。上に高架の大阪市道(築港深江線)と阪神高速道路が積み重なり、地下には市営地下鉄中央線が走る。
土木と建築が融合した迫力、条件を反映した有機的形態の現代性、そして歴史的な意義。前の2つは「ドコノモン100選」(日経アーキテクチュア連載)第4回で触れたので、字数の関係で削った歴史的な意義について、ここで補う。
有楽町界隈の東京高速道路は、それ自体は「建築」ではない。しかし、船場センタービルは「建築」である。しかも、高度成長期が達成した最高の成果の一つだと感じられる。ジードルンクやプローラやオビュ計画やメタボリズムといった、建築と都市の垣根を越えた巨大開発の系譜に連なる。
もちろん、それは70年代以降、一般には非人間的とみなされるようなものである。そうした巨大開発が半ば必然的に招き寄せるビューロクラシーを考えれば、船場センタービルの建設によって「大阪市開発公社」が設立されたことを現今の問題に短絡させられなくもない。
しかし、そうしたことを越えて、船場センタービルは20世紀の建築/土木の達成ではないか。それが大阪に存在していることも重要だと思う。万博と並んで、高度成長期の大阪の位置づけをあらわしている。
1970年という区切りの年の竣工というのが、これが高度成長の総決算であることと、竣工時から冷遇されてしまったことと重なっていて、出来過ぎなくらいの逸品。
もっと評価されても良いのでは?

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盛岡城の本丸跡(盛岡城跡公園/岩手公園)に建つ南部伯爵銅像の台座。語られることはほとんどないが、建築家/建築史家の伊東忠太の設計作である。しかも、世界旅行(1902-05)から帰国して最初に完成した作品という歴史的位置づけも付帯する。
銅像は太平洋戦争中に供出されてしまい、現在は台座だけが残る。騎馬像は彫刻家・新海竹太郎(1868-1927)の作で、伊東と新海の初めての共同制作でもある。
離れて眺めると、全体のシルエットは伊東忠太の得意とした妖怪画を思わせる。狛犬のようでもある。堂々として、愛らしい。

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20世紀を代表する建築家、ミース・ファン・デル・ローエの代表作の一つ。1929年にバルセロナ万博のドイツ館として建てられた。閉幕した1930年に解体されたが、1986年に同じ場所に再建。今や世界の建築関係者の巡礼地である。
訪れると、とにかく格好いい。そんな感想は今回、撮影した写真を整理していっそう高まった。抽象絵画のように、むやみに画面の構成を整えたくなる欲望に駆られる。機能やコストなど、どうでもいいと思えるほどの存在感。幾多のデザイナーが、こんなミースにやられてきたに違いない。
すべての構成は、その裏に抽象的な意図を感じさせる。目の前にあるのは、まるで理念そのもののようだ。同時に、これほど物質が現れた建築もない。大理石にしても、ガラスや水にしても、何かの機能やイメージのために奉仕しているのではなく、素材そのものが露になったように見える。抽象と具象が「そのもの性」において重なり合い、目に映るものが両極の間を高速で振動する。そんな時、くらくらした頭は告げるのだろう。これは「とにかく格好いい」のだと。

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