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5日目の仏壇原稿を書き終わりました。
このところ1日1枚、仏壇を建築として解釈し直すような文章をしたためています。

7月18日に始まった「水と土の芸術祭2015」(10月12日まで新潟市内の各所で開催)に参加しています。新潟仏壇組合さんのご協力で、過去に例のない仏壇の見せ方になったとは思うのですが、私の作品と言えるのは、やはり文章だろうと余計なことを思いつき、原稿用紙400字ずつ書く羽目に・・笑。

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全体構成を決めないままに書き出して、毎回一つのまとまりができるよう、マスの最後まで文字が来るようにというルールだけで、進めています。
毎日1枚、会場である旧二葉中学校の黒板に張り出されます。開場する日数とほぼ同じ75日、75枚で黒板が原稿用紙で埋まるという仕掛けです。
使っているのはwordですが、書いてしまったら後戻りできないという手書き時代のようなことを、せっかくアートイベントという場所を与えていただいたので実行して、どんなものができるのか試してみたくなりました。

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ぼんやりと見えているのは、仏壇が《建築》であること。そして、西洋的な「建築」とは異なること。それが昨今の新国立競技場問題に見られるような、わが国における「建築」の成立の難しさを照らし出しながら、やはり《建築》としてみなければならないだろうことです。
まさか、自分が仏教やアジアのテーマに関わることになろうとは・・最初の5枚は主に、閉じても美しい、写真の仏壇が書かせたものです。ご笑覧いただければ。

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「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」。「水」と「土」とが流れて動いて、人間に良いことも悪いことも与える大地で、私たちは「水と土の芸術祭」の基本理念である冒頭の問いに向き合ってきました。その心を形に凝縮したのが、身近にある「仏壇」です。
えっ、本当? と思うかもしれません。本当なんです、たぶん。
皆さんが展示に何を見るかは、自由です。私は口を出せません。やることがないので、毎日、一枚の原稿用紙を送ることにしました。全部で七十五枚が並ぶ予定です。面倒になって途中で止めてしまわないか、今から不安です(笑)。一回一回、書いていくので、文章のまとまりの途中でバラバラになってしまうかもしれませんが、それもご愛嬌と考えていただければ幸いです。
物と文章で「仏壇」をバラバラにしましょう。当たり前に思っている対象を、解体するのです。そこに現れるものは何でしょうか?
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目の前の光景から見ていきましょう。
この教室には三基の仏壇があります。最初の赤みがかった仏壇は、閉じられています。次に見える仏壇は、手で触れて動かせるようになっています。最後の仏壇は、一部がバラバラにされて、部材が壁に取り付けられています。近くには仏壇を作る過程で用いる道具類が並べられています。
最初の仏壇は、箱(はこ)のようになって、これが移動できることを示しています。仏壇は「はこべる」のです。
次の仏壇は、近くに寄って動かしてみれば、漆塗りや金箔押し、木や金属の細工とさまざまな職人の技術が集められ、組み立てられて、仏壇が成り立っていることが分かります。一基の中に技術が畳み込まれている。つまり、仏壇は「たためる」わけです。
最後の仏壇は、無理やりにこうしたわけではありません。もともと仏壇は、分解できるように作られています。つまり「ばらせる」。
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こうした三基の仏壇の姿は、通常あまり眼にしないものばかりではないでしょうか。
仏壇の扉を開け閉めするかどうかは、厳密に定まっているわけではないとのこと。朝の礼拝の前に扉を開け、夕方の礼拝の後に扉を閉じても、扉の内側にある金障子のみを開け閉めしても、扉を開けたままにしておいても、どれが誤りということでもないそうです。
いずれにしても、日ごろ私たちが向き合うのが、扉を開いた状態の仏壇であることは確かです。仏壇店を訪れても、見かけるのは扉を開いた姿です。金色に輝く内部が、仏壇の「表」のように見えます。
では、ここにある最初の仏壇のように、扉を閉じて、まじまじと眺めてみたら、いかがでしょう。
美しくはありませんか?
扉は漆塗りの技巧が凝らされて、深い輝きを放っています。扉にある金具と、上下部に付けられた金具とのバランスもピッタリです。
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全体のプロポーション、つまり釣り合いも良くとれています。その様子を下から目で追ってみましょう。
一番下が最も幅が広くて、地面に根ざしたような安定感が、安心感につながっています。段、ダンとリズムを刻むように幅は狭まり、最も細くなったところで、輪郭線は上にすーっと伸びていきます。中央部が見た目の大部分を占めていますから、ボディがくびれていることが、いかに全体をスッキリと見せているか…。細長い扉も、分割して開くためにそうなっているのですが、機能を抜きにしても、上下方向の意識を高める優れたデザインとして働いていることが分かります。
再び幅が段状に広がり、最後は上向きの曲線で終わります。天を目指すような、てっぺんのカーブは新潟仏壇の特徴です。
安定感ある「基壇」、伸びやかな「胴部」、華やかな「頂部」からなる「三層構成」という仕掛けが、最初の仏壇には潜んでいます。
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これは西洋建築の古典的な原理と同じです。西洋建築の美の基準とされているのは、今から約二五〇〇年前に完成した古代ギリシアの建築です。そのデザインを引き継ぎ、原理として整えたのが古代ローマで、そこで用いられたのが「オーダー」と呼ばれる独特の柱。一番下の幅の広い「柱礎」、大部分を占める「柱身」、飾りの付いた「柱頭」という三層構成で成り立っています。
あるいは、仏壇の三層構成は、オーダーよりは痩せて、建築全体よりも太っていると言いたくもなります。
建築全体にも三層構成は用いられるのです。十五世紀から古代ローマに学んだ「ルネサンス建築」が盛んになりますが、その時代の邸宅の基本は、一階を石積み風に重々しく仕上げて、二階から標準的なデザインを繰り返し、最上階を華やかにして軒を突き出した三層構成です。安定感と美しさを感じさせることから、その後の建築でもよく利用されました。
《未完》
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2010年も残すところ1週間。
勝手に思っていたことの多くが、予想以上のスピードで実現し、いろいろ巻き込んでいただいて、留学したみたいに知見を得た気がする1年間(正確には9か月間)でした。

赴任して半年後の「建築と社会」の2010年10月号に、研究室紹介を書く機会をいただきました。
同誌は大阪に本部を置き、1917年に設立された(社)日本建築協会の機関誌です。
その「研究の風景」と題されたコラムですが、まだ卒論生も出していない段階なので、本学や北九州の概略などが主体です。
でも、それがかえってこの1年間の紹介になるかと。
この他にも色々あるので、また書きたいと思いますが、とりあえず以下に掲載します。



研究の風景 ― 西日本工業大学デザイン学部建築学科 倉方俊輔研究室

都市型キャンパスである本学
まず、本学の説明から始めよう。西日本工業大学デザイン学部建築学科は、福岡県北九州市にある私立大学である。開学は1967年。翌年に建築学科が発足して今年で43年目になる。長きにわたり、実直で有為な人材を輩出してきた。
とはいえ、「北九州市にある大学」と呼べるようになったのは、ここ5年のことだ。開学から長い間、工学部のみの単科大学として推移し、キャンパスは北九州市内ではなく、隣接する福岡県京都郡苅田町(みやこぐんかんだまち)に位置していた。建築学科が今の場所に移ったのは2006年である。従来の工学部から建築学科を抜き出し、2004年に新設した情報デザイン学科と共にデザイン学部を設け、デザイン学部としての2つめのキャンパスを北九州市小倉北区に置いたのだ。この小倉キャンパスは、市街地再開発事業によって生まれた「リバーウォーク北九州」の一角を占め、教室等はポストモダニズムの巨匠、マイケル・グレイブスがデザインした建物の中に積み重なっている。JR小倉駅から歩いて10分。都市型のキャンパスだ。

西日本工業大学

21世紀に始まった北九州の建築
さて、読者の皆さんは、九州大学、福岡大学、九州産業大学など、福岡市に建築の学科があることはご存じでも、北九州の建築学科の印象は薄いのではないだろうか? それも無理はない。ここ10年で誕生したばかりなのだから。
現在、北九州市には建築を学ぶ学科を持つ大学が3校ある。一つは5年前に北九州市小倉北区に移ってきた本校。3校中で最も長い歴史を持つ。二つには北九州市立大学国際環境工学部建築デザイン学科で、北九州市若松区のひびきのキャンパスを拠点とする。国際環境工学部の発足に伴い、北九州学術研究都市の中に新設された。当初は「環境空間学科」という名称だったが、2008年に「建築デザイン学科」に変更し、建築の学科ということを明確にしている。三つ目が北九州戸畑区の九州工業大学工学部建設社会工学科建築コースで、2008年に従来からの土木工学系の講座に加わり、この伝統ある国立大学に新たな1ページを加えた。なお、北九州市八幡西区の九州共立大学にも建築学科があったが、2008年の工学部全体の募集停止に伴い、消滅の予定だ。
改めて確認すると、北九州市は福岡県の中で、福岡市と並んで政令指定都市になっている。複数の政令指定都市を持つ県は他にもある。大阪市と堺市、横浜市と川崎市と相模原市などだ。けれど、北九州市と福岡市のように独立した圏域として存在する例は他にない。両市は優れたインフラによってつながれている。小倉と博多の間は新幹線でわずか15分だ。それと共に、地理的にも文化的にも別個の良さを持っているのが、日本全国から見ても面白いところだ。
ただ、現時点で、北九州の《建築》が弱いことは認めざるを得ない。建築学科が3つありながら、どれも21世紀の歴史しか持たないということもあるが、それだけではない。企業および市民の建築への理解、ないしデザインに対する認識は福岡と比べても脆弱といえる。継続する建築あるいはデザインの系譜が北九州にあるのかどうかも定かではない。古くは辰野金吾から、レーモンド、村野藤吾、磯崎新といった全国級のタレントの作品には事欠かないのだが・・。外部から見たイメージも、これと同様ではないか。商業・サービス業に重きをおいてきた福岡の成り立ちと、製造業に重きを置いてきた北九州の違いが、ここに反映しているだろう。
とはいえ、仮に21世紀しかないとしたら、それは未来があるということである。北九州は独自の歴史を持つ。門司や若松などには、活況を呈した時代の近代建築や和風建築が残る。海岸沿いには独特の景観を見せる工場群があり、自然と人工を単純に分けられないような開発と調和の都市を見ることができる。考察され、使われるべき近現代の建築と都市の遺産は、むしろ福岡より北九州のほうが多いだろう。その歴史や地勢、今も続くものづくりの流れは、次の建築を産むリソースになりはしないか。近代の北九州がそうしてきたように、新たなチャレンジとして、北九州に《建築》を打ち立てられるのではないか。その際、まだ若い3つの建築学科は大きな期待を担っているに違いない。

若松01

研究室活動の戸惑い
さて、ここまで分かったようなことを書いた。しかし、私にその資格があるのか。なにせ、まだ着任して半年だ。正直、原稿依頼を受けるかどうかも悩んだ。本学と北九州を少しでも知ってもらえればと、結局は筆を執ったのだが。
私事だが、生まれてからずっと東京で暮らしてきた。今年4月から初めて、それ以外の土地に住んでいる。結果、予想以上に何の問題もない。急速に多くの建築家や研究者と知り合うことができた。本学の校風は風通しが良いので和む。景色も食べ物も交通の便も良く、肌に合う。それに皆さん動き回っているから意外なところでも会える。インターネットもeメールもtwitterもあって、今までの人のつながりが意外なほどに途切れないのが現代だ。
ただ、戸惑うことが一つだけある。本連載の焦点になっている研究室活動だ。理由もほぼ分かっている。一つは私が初心者だということだ。助手にも就いていないので、経験が浅い。二つ目は土地が違うということだ。これまでに旅行ではたびたび来ていたが、地元に密着した研究をする上では、知識も人脈もゼロみたいなものだ。そして三つ目は、大学の性格が私がこれまで非常勤などで行っていた大学とは異なることだ。私の研究室では必須にしたが、本学では卒業論文は必ずしも義務ではない。自校の大学院に進むのは例外的だ。当然助教もいないので、研究の継続性という面では難がある。基本的には教育大学なのである。そして、だからこそ、社会に送り出す前の研究室活動は、教育の面でも重要だ。それは分かっているのだが・・。

対馬漁業用倉庫

現地のモノと史料に体当たり
4月、顔も合わせたことがない新任教員の研究室に、自ら志望して卒論生が集まってくれた。さっそく週に1回のゼミを行う。みな良い学生たちだ。言われたことをしっかりやってくる。だが、今ひとつ打ち解けない。
よしっ、ということで、対馬にゼミ旅行に行くことにした。本学の学生の出身地は幅広く、九州一円や沖縄、四国、中国地方からもやってくる。卒論生の一人に対馬の出身者がいた。対馬は他の誰も行ったことが無い。私も無い。現地での発見の練習として、あえて何も調べないで向かうことにした。対馬出身の彼は「何も面白いものないですよ」と言いながらも嬉しそうに、ちょっと緊張して、現地で回るルートをお膳立てしてくれた。博多港から対馬まではフェリーで4時間半、高速船ならわずか2時間強だから、東京から少し郊外に行くくらいの時間だ。
そうしたら、なんと面白いことか。石の多様な用法、独特な民家の間取り、集落のあり方、現地の生態系に対応した民具、自然と呼応した信仰の形・・。中でも珍しい煉瓦造家屋に目が止まり、再訪して聞き取りや実測を進めている。建物は対馬の近代史を物語る。学生との距離も少し縮まったような気がする。
北九州に関する研究も進めている。一つが北九州市門司区にある門司ゴルフ倶楽部ハウスだ。1960年竣工の建物と前後の経緯について当時を知る関係者から話を伺い、倶楽部の持つ資料を調査している。見えてくるのは、単にアントニン・レーモンドの作品というだけでない、戦後の北九州の歴史との脈絡だ。
小倉における商圏の形成過程も把握しつつある。こちらに来て興味深かったのはアーケードに対する「銀天街」というネーミングで、その名称の広がりから北九州の影響圏を探る研究も進行中だ。
どこにでも考えるべきことはある。しかも、北九州は明治以降に各々発展した旧五市が合併した、ほぼ近代しかない街である。にもかかわらず、近代の都市・建築の研究が厚いとは言えない。研究は広く他都市との比較も含めて、日本の近代を捉える際に重要な視点を提供するだろう。加えて街の基盤を見出し、継承する街の未来を生み出す素地にもなるだろう。そんなことを考えながら、カンに頼った、現地のモノと史料に体当たりしての研究室活動は続く。

門司ゴルフ倶楽部ハウス

地道で大胆な大学という存在
幸いなことに、赴任の前後から九州でのイベントに多くお誘いいただいた。4月下旬には建築家の井手健一郎氏(rhythmdesign)らが福岡で開催している「DESIGNING」展のシンポジウムに登壇し、東京や福岡の建築家と濃密な意見交換を行うことができた。同じ頃、熊本大学で九州で初めてとなる建築史学会大会が開かれ、九州の建築史研究者にご挨拶ができた。6月初めには、松村秀一氏他によるリノベーションシンポジウムの第2回が鹿児島で行われ、コメンテーターとして多くの情報を得た。8月上旬には松岡恭子氏(spinglass architects)が中心となって進めている近現代建築ツアーMATfukuokaに参加した。同月下旬には、福岡県の30代建築家の5人展「5×2020」でモデレーターを務めた。10月上旬にはJIAの全国大会が小倉で開催され、続いて日本建築学会文化週間のシンポジウムが本学で行われる。
こうしたことを通じて、多くの方と知り合うことができた。半年前に直接会ったことのある九州の知り合いが2、3人だったことを思うと、自分でも驚く。この間、シンポジウムや非常勤講師などで月に1、2度づつ東京や関西に赴き、イベントの準備で福岡を頻繁に訪れていたこととあわせて、北九州の個性についても考えることができた。
7月からは本学の地の利の良さを生かして、公開連続セミナー「デザイン・建築の現在」をスタートさせた。聴講・懇親会とも無料とし、本学の学生だけでなく、地域の大学や実務者の方々の刺激となること、新たな出会いとして機能することを狙っている。広島から谷尻誠氏をお招きした第1回には、遠く佐賀や長崎からも学生が訪れ、反響の大きさを実感している。サポートしてくれた学生達も生き生きしていた。こうしたこともきっかけに、北九州にある3つの大学がもっと情報交換できるような建築学生団体TONICAを後押ししたいと考えるのだ。
北九州という街には大きなポテンシャルがあるはずだ。その時に、つまり存在するものを認識し、読み替えていく際に、建築・都市的な思考が果たすべき役割は大きいだろう。
だが、北九州にはまだ《建築》が十分とは言えない。同時に、これほどそれが待ち望まれている街もそうない。その中にあって、地道に人を育て、他方では大胆に動ける大学という存在はますます重要に違いない。

出典:「建築と社会」2010年10月号(日本建築協会)
国内旅行ばかりしていたので、8月は何日も東京にいなかった気がするが、そういえば、エクスナレッジから『新・東京建築案内』という本が出たのだ。



中山英之さん、平田晃久さん、石上純也さんの描く「東京未来予想図」、建築家がらみのTOKYOスポットや、建築家の案内する東京ツアー。
五十嵐太郎さんのアンビルト東京建築史や、小説から読み解く坂口恭平さんの「立体読書とメトロポリス」も面白い切り口だ。

僕は「『東京』をつくった15人」というタイトルで、建築家や実業家のそれぞれの「東京」を描いた。これまであまり「都市」ということを考えてこなかったので、発見の多い仕事だった。
15人は個人的な関心で選んだ。以下の方々だ。
トーマス・ジェームズ・ウォートルス/辰野金吾/渋沢栄一/片山東熊/横河民輔/阪谷芳郎/後藤新平/岡田信一郎/渡辺仁/五島慶太/石川栄耀/前川國男/丹下健三/森稔/石原慎太郎

結局、この作業も細部から見て、並列的に、東京ヴィジョンの断片を歴史的に描いたことになるのだが、俯瞰する立場が無いという点では、あら不思議、本全体のテイストにぴったりとはまっている。
何せこの本、地図が一つも出てこない。だから、自分でページを歩いて見つけられる魅力に満ちている。

東京以外の場所では、まちに行くと行ったら、基本的にそれは1点に限られる。
東京だけは、完全にそうではない。
そんなことを8月に改めて感じた。

誰も東京を知らない。
不在のうちに届いていた本書は、いちばん誠実に、東京らしく思えた。

東京には中心がない。真ん中が皇居だとか、そういうことではなしに、本当に無いのだ。東京に中心がないということは、もはや東京が中心でないということでもある。それを、いち早く知った上でのポテンシャルの総和という点で、まだ中心になっているのかもしれないが。
編集委員会の忘年会風景

18時に始まった日本建築学会「建築雑誌」編集委員会は予定の21時ちょうどに終わり、地下の店で忘年会。といっても、会議後には毎回、飲んでいるのだが…。
2007年6月に始まった今回の編集委員会も残すところ、あと半年となった。2009年12月号までの特集記事の枠組みも決定。早いものだ。

そんな開放感からか「忘年会」だからか、いつもに増して話が盛り上がる。
『建築学生のハローワーク』は初めて実物を手にしたが、予想以上に幅広い内容で、建築学生の人生の行き先50を示す。この不況が追い風となるか、向かい風となるか。
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学習院大学の集い01

今年から学習院大学で非常勤講師を勤めることになった。
といっても、受け持つのは「記録保存と現代」というオムニバス講座の中で1回だけなのだが、そんな私にも丁寧な「講師歓迎会」の案内が届く。同日の打ち合わせに参加できないこともあって、出席させていただく。
会場は新しくできた大丸東京店12階にあるモダン・デザインの中華料理店「The Tokyo Phoenix」。40~50名の教授・講師陣が集う。文学部史学科の例年のしきたりだという。奥に秘めた教養を感じさせ、一般人とは少し変わった風貌で、がつがつしていない、余裕のある人々による、心穏やかな時間である。
... 続きを読む
建築雑誌1月号表紙

五十嵐委員会の『建築雑誌』第1号が発行された。
ここでいう建築雑誌は、一般名詞ではなくて、日本建築学会が月一回、発行する『建築雑誌』という名の機関誌である。
入会すると、もれなく付いてくる。
要らないので会費を安くしてくれと言っても、通らない。
だから、月刊3万5000部の大メディアである。
これを上回るのは「Casa BRUTUS」か「日経アーキテクチュア」か、といったところだ。
... 続きを読む
建築雑誌表紙

一般名詞ではない「建築雑誌」を、ご存知だろうか?
(社)日本建築学会が明治20(1887)年から発行している月刊誌の名称だ。学会員の数はおよそ3万5千人。一般に売っていない機関誌であっても、部数だけなら専門誌にひけをとらない。
... 続きを読む
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